大事にしてネ|それは神様の祝福!

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「大事にしてネ」と保育士が子どもたちに声を掛けると、子どもたちの緊張が私にも伝わってくる。おずおずと差し出した手にウエハースを乗せてあげると、「ありがとう」という子もいれば、ジッと見詰めている子もいるし、直ぐに口にする子も。K保育園礼拝で小児祝福式が行われた時の様子である。

子どもたちにあげたウエハースは、教会の礼拝で聖餐式(註1)が行われる際に用いられているものだ。聖餐式は「聖礼典」(註2)であり、洗礼を受けた者に与えられる。保育園の礼拝なので設定されていないウエハースはキリストの体ではないが、大切なものであることには変わりない。通常の子どもたちの礼拝において、私自身が最も大切にしていることは、お話よりも実は最後の祝福である。ただしそれは見えないし、子どもたちには「礼拝が終わる」というお知らせのように受け止められているかもしれない。子どもたちの礼拝の時だけでなく、日曜日の礼拝においても、私は「説教に間に合わなくても、祝福だけでも良いから来てください」ということがある程、大切にしてきた。だからこそ年に一度、見える祝福としてウエハースを与えてきたのだ。

「大事にしてくださいネ」と、実はウエハースを購入する時に、お店の方に言われた。そこはカトリック系のキリスト教用品店で、ウエハースとしてではなく「ホスチア(いけにえの供え物の意)」として売られている。ホスチアは設定されると、小麦粉でつくられた物であっても「キリストの体そのものになる=聖体」(これを化体説という)という意味で、お店の方は「設定すればキリストの体になるものだから、大事にして」と私に話しかけられたのだ。微妙な違いだが、様々な教派にキリスト教が分かれていく原因になっているのが「聖餐式におけるパン・ぶどう酒の理解の違い」にほかならない。

大事にしたいものは個々人で異なるだろう。神の祝福は私にとって大事なものだが、子どもたちに押し付けるつもりはない。でも、「祝福を大事にしてネ、ウエハースを受け取った時みたいに」と祈りつつ、今年も保育園の小児祝福式を無事に終えられ感謝であった。

(註1)聖餐式ではパンをキリストの体として与え、ぶどう酒をキリストの贖(あがな)いの血として渡される。最後の晩餐の折のイエスの言葉(マタイ26章26節~28節)を根拠としている。その際、ルーテル教会では、イエスの言葉が加わる(設定する)ことによって、「パンであると同時にキリストの体になる、ぶどう酒であると同時にキリストの血になる」と信じている。
(註2)聖礼典とは神の救いの見える恵みを意味し、ルーテル教会では洗礼と聖餐の二つと定めている。

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