信仰の根拠|私がキリスト者であり続ける理由

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数日前、玄関ドアを開けた私は、「申し訳ありませんが、撤去後の写真を撮らせてもらえませんか?」と作業服姿の男性から依頼を受けた。「撤去後?写真?」と一瞬の戸惑いはあったが、直ぐに思い出した、10日程前、牧師館裏の隣家との境界線近くにあった木製電柱を撤去してもらったことを。私たちが24年前に赴任した時は既に「ただの木柱」と化しており、私有地ということもあって私たちも放置し続けてきた。その電柱がついに牧師館に向かうように倒れてきたのだ。寸前のところで使用されていない電線に引っ掛かり、辛うじて直撃を免れた。慌てて連絡をとると、状況を把握にきた職員から「これは『電電公社』のもので、今はわが社と直接関係ないんですよね」と。確かに言われてみればその通りと困惑する私に、「でも未処理物件として何とか処理します」と言ってくれ、胸を撫でおろした。翌日、30分程の作業で電柱は無事撤去された。作業が終わって古い電柱のことは私の脳裏からは既に無くなっていたが、「撤去終了」を証明する写真を撮る作業に手抜かりがあって、「撤去後の写真を」という依頼になった次第。何事にも「確たる記し、即ちエビデンス」が必要という訳で、即座に了承したのは言うまでもない。

「エビデンス」という言葉を、コロナ感染症で日常を制限された時、頻繁に耳にした。ビジネス社会では以前から頻繁に使われており、「エビデンス(根拠)は何か」と求められるのが常だ。(電柱を撤去したという証拠写真が欲しいというように。)しかし、私自身の日常(牧師としての働き)においては馴染のない言葉であった。神に関わることについては、社会が求めるような「エビデンス」とは、殆ど無縁であるからだ。だが、その言葉を用いてこなかった、あるいは意識していなかったというだけで、キリスト者は常に次の言葉を根拠として日常を送っているといっても過言ではない。即ち「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。神の世に対する深い愛こそが、キリスト者として生き、宣教し、奉仕する全ての基、根拠であって、結果を重視することも依存することも、それを根拠とすることなく務めるのが私たちなのである。

パウロのように劇的な回心の出来事(使徒言行録9章)もあるだろう。神を知り1日で受洗を決意することもあれば、何十年も経て死の床で受洗することもあるだろう。洗礼に至る様々な過程があるけれど、パウロも含め人の側に根拠があるのではなく、「神が愛してくださっている」それのみが、私(たち)がキリスト者として生き続けている根拠にほかならない。

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