桃栗三年柿八年とはいうけれど|信仰の成長とは

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「さて、食後のデザートにしようか」と、ある日の夕食後に連れ合いが呟(つぶや)いて、そのまま台所から庭に出て行った。それから1分後に、食卓に現れたのは庭のビワ。小振りだが甘く無農薬、何よりもぎたてを食せるのだから、美味、美味、美味!今年も旬の味覚を堪能でき感謝である。

市川に赴任した年の夏、Aさんが小さな苗を持ってきてくださった。「庭のビワの根元から、ひこばえが出て来たので、先生が赴任して下さった記念に」と、庭の片隅に植えてくださったものだ。数年経ってかなりの大きさになったが実はつかず、調べてみたら「桃栗三年柿八年枇杷(びわ)は早くて十三年」ということわざを見つけた。結実までずいぶん時間がかかると分かってノンビリ待つことにした。剪定も何もしないままグングン成長したビワが結実したのは、ことわざ通り十年を経てからであった。隣家の2階に届くほどに成長した木は、半分以上は鳥たちのご馳走に。それから数年、見かねたSさんが手入れして下さり、隣家に侵入し始めた上部分をカット、横に伸びた枝のみを残し、実ったビワを収穫できるように手入れしてくださった。それが今年の春の強風で、手が届かなかった高さの枝が折れ、結局、地面から実をもぎ取れる部分の枝のみが残り、今年の収穫になった次第である。10年前に比べるとはるかに小さくなった代わりに、私たちに美味と収穫の愉しみをもたらしてくれたこと、それもまた別の意味での「成長」なのかもしれない。

「成長」という言葉を聞くと、「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(1コリント3:6)という聖句を思い起す。成長した教会に問題が生じ、対立が発生した際にパウロがしたためた言葉である。「大きくなり、組織が整えられていく」そんな姿を「成長」という言葉からイメージするのが私たちだが、聖書は成長を信仰という点から見据える。「あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人ひとりの愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです」(2テサロニケ1:3)とあり、パウロが問題としているのも、「信仰の成長」の問題なのだと言っているに等しい。信仰の成長がもたらすものは互いを認め合うことであり、同時に「一人ひとりは隣人に喜びを与える存在である」ということを認め合うことにほかならない。

ビワの木は10年前に比べてはるかに小さくなり結実も少なくなったけど、この季節に私たちに喜びをもたらし続けてくれている。ビワもまた信仰の成長を続けているのかもしれない…ちょっと違うかな!

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