そうだ、京都へ…行ってきた|神様に触れ直す
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今年も休暇を利用して京都へ行ってきた。20年も続けている「私の夏の行事」なのでいつの間にか「ルーティーン化」してしまった感もあるが、夏の声を聞くと「今年は何処を歩こうか」と思いを馳せてしまう。自然豊かな有名な神社仏閣もあれば、街中に埋もれたようなそれもあり、歴史の重みや信仰の息遣いが聞こえてもくるし、多くの人々が拠り所とし大切にしてきた「神(仏)様」という存在を肌で感じられることもある。勿論、それは私にとって信仰の対象ではない。しかし神社仏閣を巡りながら私は「神」に触れているような錯覚に陥ることすらある。だからだろう、「京都」という場所に夏になると心も足も向かってしまうのは。
「日常の中の非日常」を感じられるのが市川教会の会堂である。100人も入れば一杯になる木造の小さな会堂だが、天井が高く、一人で会堂に座っていても寂しくないのは、神様に包まれているような雰囲気があるからだと思っている。この会堂に月に一回(最近は天候不順が多くて来られない月も多いが)保育園の4・5才児たちが、江戸川の土手の道を約30分かけてやってくる。10年程前まで3才から教会に来ていた頃のことである。ある年、イスラム教の国から派遣留学されていた家族の子どもが保育園に通園していて、その子が3才クラスに進級する前、お父さんが来園され、「礼拝の時、教会には未だ一緒に行かせないで欲しい」と申し出があった。一人だけ園に残し他のクラス(乳児)と一緒に過ごさせるのは難しいと断り、「一緒に行動できないのであれば園として責任が持てないので転園したらどうか?」と投げかけると、「他の園では神様のことを教えてくれないから転園したくない、キリスト教の会堂で礼拝すると3才だと混乱する。6才になれば自分で判断できるようになるので、会堂に行ってもイスラムの神との違いを理解できるはず。だから2年間はどうか教会での礼拝に連れて行かないで欲しい」と。様々な要素が信仰を助けてくれることを知っているからこその申し出に、子どもへの信仰の継承に真摯に向き合う保護者の姿に心を打たれたことを思い出す。
会堂は私にとっては「職場」でもあり、意識しなければ「慣れ」が優先してしまう。だからこそ私は京都という場所で、神様に触れ直しているのかもしれない。ただ、「わたしはある」(出エジプト3:14)とご自身のことをモーセに告げられた神は、どこかに「居る」という神でないことは言うまでもない。とはいえ今年は京都の東山地区を散策しながら、今年も心をリフレッシュさせていただいた。感謝。