感性を育てる

(62)

黄色いチューリップが二輪、教会正門脇に咲いた。春を代表する花の開花を目にしたとたん「春だなぁ」と呟く私がいた。チューリップ=春という感性が、根付いているからだろう。この時期、保育園の子どもたちと一緒に「こどもさんびか:くさのめ きのめが」を歌っても、春やイースターの感覚(具体的な表現は難しい)に包まれる。しかし、2年前のイースターの頃は、コロナ禍第一波の最中だった。祝会もなく、イースターの日に次男の家では男の子が誕生したというのに、「めでたさも、春の気分もコロナに打ち消され」といった感じだった。一昨年も昨年も「くさのめ きのめが」と子どもたちと歌ったはずなのに、「春もイースターも」思い出す感性はどこかに行ってしまったような感じで過ごしていた。だから黄色いチューリップを見詰めていて、ふいに「春だなぁ」と呟き、春の只中に誘われたような気分になったのも、私の中の感性がうごめいたのかと少々嬉しくもあった。

そういえば、子どもたちが幼かった頃、遊具に乗せて遊ばせていた時の鮮明な記憶がある。小学生くらいの兄と弟の兄弟が直ぐ横にいた。突然、「お兄ちゃんが殴った」と泣き出す弟、すると父親がやってきて、兄の頭を平手で打ちながら「弟を叩いたらだめだろう!」と怒っていた。兄の方はというと、キョトンとした顔をして父親を見詰めていた。それもそうだろう、叩かれながら「叩くな」と言われても・・・。あの子には「暴力はいけないことだという感性は育たないだろうなぁ」と、知らない家庭のこととはいえ心配しつつその場を離れた。「殴られて育てられた子は、殴りながら子育てをする」、それもまた育てられた感性のひとつ、残念なことだが。

「神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように/いさかいのあるところに、赦しを/分裂のあるところに、一致を(後略)」(アシジの聖フランシスコの平和を願う祈り)憎しみしかない」とウクライナの人々の怒りに満ちた声を聞く。残虐な行為は、「憎しみ」という感性を育てる。今の私はその憎しみに対して、愛を語ることはできない。いや誰も語れないだろう、ウクライナの人々に。死ぬまで、もしかしたら何世代にもわたって、この祈りはウクライナの地では祈られないかもしれない。しかし芽生えてしまった「憎しみ」という感性が、「赦しと愛」という感性に変わる日まで、私もこの侵攻の残虐さを忘れず、そして支援し続けたいと心に刻んでいる。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ23:31)この言葉を言えない私がいる今年の四旬節。