終わりが幸いな人

第一章 人を祝福するとき

創世記によれば、人はすべてのものとともに「よし」とされて創造されたとあ る 。 人は 、呪われたり 、 滅びたりするために 、この世に生きているわけではない 。人の存在は肯定的に受けとめられているのである 。「人を祝福するとき」とは 、人 の存在が肯定されていることを明らかにする言葉であろう 。 人を祝福するとは 、この肯定的な人間存在の意味を自分のなかに 、あるいは他人のなかに発見したいとの思いをこめている 。

 

心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。(マタイによる福音書5章3節)

 

【解釈】
イエスの山上の説教〔マタイによる福音書5〜7章にある〕の一節である。ここで用いられた「貧しい」という言葉は、直接的には施しを乞う者の意味をもち、 援助を熱望している人たちを意味する。この「貧しさ」に「心の」という言葉をつけ加えることによって、謙虚に神の恵みを願っている人々という意味となる。 単純に精神的に乏しいという意味ではない。

「幸いである」という言葉もたんなる幸福ということではなくて、祝福の意味である。日本語聖書では、「幸いである」という言葉が文末にあるので「貧しい人」のほうに強調点が置かれているように受け取られがちだが、本来は「幸いである」 が文頭に置かれていて、祝福に強調点がある。したがってこの箇所を超訳すると「祝福されているのですよ。あなたたち心の貧しい人たちは。天国はあなたたちのものです」ということになる。天国とは神の国と同じである。自分を空っぽにして、謙虚に神の恵みを願う者は、かならず祝福され、神のもとにあると言っているのである。

【こころ】
ある年のクリスマスも迫ったころ、ハノーバー(ドイツ)の近くのロックムという小さな村に行ったことがありました。人口600人ほどの村に、1000人ははいれるかと思われる大きな教会がありました。その教会にはつい最近まで付属の修道院があったのですが、今は最後の修道僧が死んで、会堂と修道院の建物だけが残っています。冬枯れの凛としたたたずまいを見せる森のなかにある石造りの教会は冷えびえとしていました。思わず身ぶるいをして、尋ねました。
「いったい、修道士たちは冬はどんな暮らしをしていたのですか」
「弱い人は死にます」
と案内人のそっけない返事が返ってきました。その瞬間、祈りと静寂の聖域のなかに、 人間としての日常の姿が急に戻ったかのような感がして、弱々しげにゴホゴホ咳をしながら毛布をかぶって寝ている修道士と、頑健な体をもてあましながらワインで体を暖めている修道士の姿を頭のなかで思い比べていました。

修道院の庭には墓がありました。その墓碑に刻まれた名の上にはすべて「神にのみ栄光あれ」とラテン語で書かれてありました。墓に眠る人々が生前どんな人だったかは分かりません。頑健な体を使って修道院のために渾身を尽くした修道士かもしれません。 あるいは、ゴホゴホと咳をしながら同僚に申し訳ないと言いつつ、日がな一日ベッドに横たわっていた修道士だったかもしれません。

新聞のおくやみ欄を見ると、生前なにをした人であるかが、その人の死を飾るようです。しかし、この地上の生活がどうであったにせよ、ひたすら心を貧しくして神を求めた人は、だれでもその最期を「神にのみ栄光あれ」という言葉で終わることができる、 これはなんと幸いなことかと思わざるを得ませんでした。