巡り巡って結果は益

第五章 岐路に立ち選択するとき

人生は選択の結果である。人生の結果に影響するのは、環境と出来事、そして生まれつきの素質であり、加えて自己の決断がある。環境と出来事と素質は変えることができないが、しかしそれだけで人生が決定されるわけではない。人生を最終的に決定するのは自己の決断である。その決断は、環境や出来事や生まれつきの素質にもかかわらず、それらを超えて人生を決定する。その決断を促すものはなにか。それを発見した者こそが人生に勝利する。

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、 万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ローマの信徒への手紙8章28節)

【解 釈】 人間の世界には、嬉しいこともあれば、悲しいこともある。穏やかな日もあれば、嵐の日もある。苦痛もあれば、幸福に酔いしれることもあろう。人はその渦中にあって一喜一憂する。世界はただ流転するだけで、なんの意味ももたないかのように思われることがある。なにをすればよいのか、なすべきこともはっきりしない、不安のどん底に突き落とされたかのような気がすることもある。

パウロはこの言葉を語るにあたって、物事の移ろいには大きな意志が働いていることを信じた。善いことも悪いことも快も不快もないまぜに物事は移り行くようである。しかしその結果はかならず益となる。なぜなら、物事の推移には神の大きな意志が働いていると信じたからである。神の意志の働きを信じることのできる者は、その意志がけっして人を滅亡へと押しやることはないと信じ得る。だから、物事の移り変わりがどのようであれ、その結果はかならず益となると信じたのである。益とはパウロにとっては、自分に好都合であるとの意味ではない。

神が与えた結果は何事であれ益と信じる信仰がここにある。そのとき、これまでのことも含めてすべてはOKとなるのである。

物事の移り変わりをこのように受けとめることのできる者は、どのような結果を得たとしても泰然として動くことはない。

【こころ】 オーストリアの精神科医ヴィクトル・フランクルは、『夜と霧』の著者としてよく知られていますが、人は意味なくして生きることはできないということを提唱し、ロゴセラピーという実存的心理療法を開発した人でもあります。ロゴセラピーが開発される背景には、アウシュビツツのユダヤ人強制収容所での体験がありました。彼は、苛酷な収容所の生活のなかで希望を失うことなく生きた人と、早くに希望を失い気落ちしていった人とのちがいを観察し、希望をもって生き抜いた人たちは、彼らが置かれた状況がどれほど苛酷であろうと、そこに意味を見いだした人たちだったということに注目したのです。もし置かれた状況に意味を見いだすことがなければ、生きる希望を失い、絶望の淵に沈むのみです。

フランクルは、置かれた状況のなかにその意味を見いだすことについて、たいへん重要なことを言っています。「人は、置かれた状況に向かって自分のほうからどのような意味があるかと問うたところで答えはない。身を置いた状況から、なにが自分に問いかけられているかを聞き取るとき、人はそこに意味を見いだす」

これは不思議な言葉です。自分自身ではなく、状況が主人公なのです。その主人公である状況が、答えをもっているのです。状況のなかにいる自分自身は答えをもっていないのです。状況がどれほど苛酷であろうと悲惨であろうと、その状況そのものがかならず答えをもっているのです。その答えに耳を傾けるなら、いかなる物事の推移も益とすることができるはずです。

賀来周一著『実用聖書名言録』(キリスト新聞社)より