自分の重荷は自分で背負う
勇気がもっとも必要とされるのは、生死を分ける危機に立たされたときである。 しかも勇気は生きるために用いられねばならない。生きるための勇気とは、私の存在を肯定することである。私の存在を肯定するとき、私は困難に耐え、苦痛を忍ぶことができる。その勇気がないなら、私は私の存在を否定しなければならない。それは私の死にほかならない。もし私が死を選択するなら、それはあきらめがそうさせるのであっても、勇気ではない。生きるためには勇気を必要とする。
また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。 (マタイによる福音書10章38節)
【解 釈】
人は日々の生活のなかでやむなく重荷を負って、苦労しなければならないことがある。できることならこんな苦労はしたくない。早いとこ、捨ててしまいたいと思う。助けてくれるものもいない。世のなかは冷たいと思う。いやいやながら重荷を担って、だれかに助けてもらいたいと他人に依存しているからである。いわば重荷を受動的に受けとめているからである。
イエスは、弟子たちが他人から拒否されたり、軽蔑されたり、いろいろ苦労しながらご自分に従ってくるのをよく知っておられた。イエスに従うと決心をしたために、しなくてもよい重荷を背負っている姿がそこにあった。しかし、それは仕方なく背負わされた重荷とはちがう。自分で決心したことによって与えられた重荷である。それがないとイエスに従う意味を失う。そのような重荷である。重荷だけれど、意味のある重荷である。しかし、重荷を意味あるものにするには、 自分の手でそれを取り上げねばならない。そこに勇気がいる。
【こころ】
ある福祉関係の講演会に行ったときのことです。障害児をもった家族が困難にもめげず生き生きと生活をしているさまを講演のなかで取り上げ、どんな困難に遭っても、そこにはそれなりの新しい世界が広がっている、だからくよくよすることなく乗り越える勇気がもてるのだという話をした後のことでした。その話を聞いたひとりの方がこう言われます。
「確かに講演者の方のおっしゃるとおりだと思います。私も障害をもった子どもを育てていますが、頭のなかでは、この子がいるのでいろいろなことを勉強することができたし、この子がいなければ私も知らなかったことがたくさんあると思っています。その意味では、この子は私にとって人生の先生のようなものです。でも、他人さまから、どんなつらいことでも見方を変えれば、かならず良いことがあるといったふうな話を聞く と、かえってつらくなります。たとえ見方や考え方を変えて生きているにしても、心の どこかには重たいものをもっていますからね。でも私には教会があってよかった、行くところがあって」
望まずして負わされた重荷を担いでいる人の内面を見させられた思いのする言葉でした。おそらく障害をもつ子を育てる苦労は並大抵のことではないはずです。しかも、自分の人生に起こったことはあくまで自分で引き受けねばならないのです。それこそ勇気がいることです。引き受けたからといって、それで問題が解決したわけではありません。 相変わらず重荷は肩に食い込んでいるのです。イエスは重荷を負った者に「私に従いなさい」と言われます。「あなたには行くところがあるのだ」ということなのです。重荷を負って行くところがある、それこそ究極の答えです。