
あなたに伝えたくて
聖書で語られているペトロさんやヨハネさんが言っている「わたしたちが見たり聞いたりしたこと」ってイエス様が行われた奇跡や話された言葉の数々のことなのでしょうか。
聖書で語られているペトロさんやヨハネさんが言っている「わたしたちが見たり聞いたりしたこと」ってイエス様が行われた奇跡や話された言葉の数々のことなのでしょうか。
ある朝、私は風の音で目覚めました。いつもより大きな音のする強い風でした。あれは大丈夫かな、これはどうだろうかと心配で外を見ましたが、草や花、木々は一本も折れないで、ただ風に揺れていました。
入退院を繰り返していると、いろいろなものが変わって行きます。 それは自分自身の身体や病気の状態が変化することもありますが、 病院が新しい建物になったり、スタッフが変わったり、治療方針が変わって行きます。 その度に、私たち一人一人は戸惑ったり、苦しんだり、不安になるのではないでしょうか。 今回の入...
弟子たちはイエス様に「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた時、すぐに「何言ってんですか、私たちはちゃんと祈りましたよイエス様!」と言いたかったかもしれませんが、聖書にはそのような弟子たちの言葉は載っていません。
「信仰」ってなんでしょうか?文字通りに言うと「信じて思い仰ぐこと。」わかったようなわからないような。そうです、他の人が「標準的にはね」と言えない、あなた自身の心のあり方を言います。
イエス様は平和なんだ。敵意って壁なんだ。と考える時、私たちは実は目に見える形あるものと、目には見えない形ないもの、両方のものの中に生きているのだと気付きます。
え、ユダがわざわざ合図をしなければイエス様ってわからなかったの。」この聖書の箇所を読む度に私は思いました。初めてみことばにであわれる方も「イエス様って、そんなにいつもご自分の身を隠されておられたのかしら」「イエス様の正体を暴くために、ユダは合図を決めたのかしら」と思う方も少なくないと思います。...
イエス様はエルサレムという当時の都に入られる時にろばを必要とされます。イエス様は足が痛くて歩けなかったのでしょうか?理由はイエス様にしかわかりません。ただその時にイエス様は子ろばを必要とされました。しかも子ろばと一緒にいたろばも共に引き連れて来られることで、子ろばには必要な安心も与えられました。
死刑の判断がなさようとする時、しかもそれが自分に身に覚えのない濡れ衣で自分は陥れられていることが明らかな時、「そんなこと身に覚えはありません」と裁判を司る人に訴えるか、「助けてくれ!」と命乞いをする人が多いでしょう。
先ほど、お祈りに覚えましたように聖書を読む私たち一人一人は聖霊の働きによって聖書からみことばを聴いています。私も同じです。だからいくら頭の中で覚えて何度も何度も読んでいる言葉でも、聖書を読む度に聖書からみことばが新しく語られます。