今このときも
ご一緒にお読み致しました聖書の箇所「マルコ15:39」で、「本当にこの人は神の子だった」と百人隊長と呼ばれる人の言葉として語られます。 聖書から聴くあなたには、今、どのように語られていますか。
ご一緒にお読み致しました聖書の箇所「マルコ15:39」で、「本当にこの人は神の子だった」と百人隊長と呼ばれる人の言葉として語られます。 聖書から聴くあなたには、今、どのように語られていますか。
「あなたを愛している」と言われて、「はい、そうですか。ありがとう。」と言える人はいらっしゃるでしょうか。それより「どのくらい私のこと愛してるの?」と聞いてみたり、「証拠を見せて」と言ってみたり、いろいろな反応があるのではないかと感じます。それは「愛」というものには、形も色もなく「私が信じる」とい...
今ご一緒にお読み致しました聖書の箇所は、バラバという悪党が主イエスの代わりに十字架から下ろされて恩赦を受け解放されていく場面です。
命を持っていない方はおられますか?命は目に見えなくても、私たちは「持っています。」と、自信をもって言うことができます。なぜでしょう?手が動くから?足が動くから?目に見えて動くものを確認できなくても、皆さん命が与えられています。
今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所においては、復活のイエス様に出会った弟子たちの話を聞いて不思議に感じていた弟子たちの真ん中に復活のイエス様が立ち、「あなたがたに平和があるように」と語られ、復活された体を証明されるために食事をされるという場面が語られております。
「天に誓って。。。」と、私は学校の友達などによく言った覚えがあります。
あなたは誰に信頼していますか?それではあなたは誰に信頼されていますか?
あなた方は地の塩である。とも、世の光である。とも、聖書においてイエス様は語られています。
私が思い描くキリスト誕生の絵は幼い頃から、暗い小屋の中、笑顔の馬や牛を背景に座っているマリアさんと立っているヨセフさんと天使たちに囲まれて、飼い葉桶の藁をクッションにして布にくるまれて寝かされて微笑む、赤ちゃんのイエス様の絵です。
幼い頃、この聖句を読んでギョっとしてしまったのは私だけでしょうか。聖書を読みながら私は、「イエス様はいったい何肉になって、私たちの身近にあるの?」なんて考えてしまう自分がいけないと罪悪感を感じたりしていました。