
今のあなたが
新約聖書の一番始めから読もうとして、人の名前が、しかもあまり日本では聞き慣れないカタカナの名前がずらずらと書かれていて、「よし、聖書を読むぞ」という決心が何度もくじけそうになった覚えはありませんか?私はあります。確かに新約聖書の一番初めの「マタイによる福音書」には、はじめに神様が造られたアダムか...
新約聖書の一番始めから読もうとして、人の名前が、しかもあまり日本では聞き慣れないカタカナの名前がずらずらと書かれていて、「よし、聖書を読むぞ」という決心が何度もくじけそうになった覚えはありませんか?私はあります。確かに新約聖書の一番初めの「マタイによる福音書」には、はじめに神様が造られたアダムか...
「神様からのお導きで」とか「イエス様のお導きで」という言葉は、なんの抵抗もなく私たちは聞きますが、「霊のお導きで」と言うのは、なんとなく怪しいように聞こえることがないでしょうか?それは私たちが持っている「霊」という言葉のイメージから来るのかもしれません。目には見えない得体の知れない力であるとか、...
今ご一緒にお読み致しました聖書の箇所「使徒3:1-10」において、ペトロさんとヨハネさんというイエス様の弟子である人たちが、生まれつき足が不自由で歩くことができなかった人を、自分の足で立ち上がって歩けるようにする奇跡を行います。神様による奇跡、イエス様のお名前によって起こる奇跡とは何でしょう。
最近、私は特に思うことがあります。それは入院して、病院から帰って来れるのだろうかと不安に思うことです。来週には退院できると、いつも当たり前のように思っていたのですが、考えてみると当たり前の「今」という「とき」はないんだなと思いました。
私たちは神様を見たり触ったりしたことはありません。聖書にイエス様の言葉が記されていても、イエス様の姿を見たり触ったりして確認することはできません。そのような存在の方を信じて感じることしか、今を生きている私たちにはできません。
今ご一緒にお読み致しました聖書の箇所「ヨハネ15:16」で、イエス様はこのように語られます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と。
「信じる」ということは、いったいどういうことなのでしょうか。自分の思い通りに物事が進むようになれば信じられるのか、自分が納得いけば信じられるのか。逆に考えもしなかったことが目の前で起こると、いくら奇跡を願っていたとしても、信じられないほど驚かされることもあります。
漁にでる漁師さんが「わたしは漁に行く」と言っても何の不思議はありません。しかし,時と場合にはよらないでしょうか?
「何のために私は生まれて来たのだろう。」 このような思いを少なからず一度はお思いになられたことはないでしょうか。「何のために私は生まれて来たのだろう。」私もこう問わずにはおられない、そんな心の追いつめられた状態になるときがあります。
「今まで自分に起こったすべてのことを、私は一人で乗り越えて来たんだ。」と思われている方は少なくないかもしれません。そうでもなく、「なんで今、自分は無事でいられるのだろうか」と不思議に思っておられる方もおられるでしょう。今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所は「共におられる神様」を力強く私たちに詩...