
かみさまのいうとおり
「信仰」ってなんでしょうか?文字通りに言うと「信じて思い仰ぐこと。」わかったようなわからないような。そうです、他の人が「標準的にはね」と言えない、あなた自身の心のあり方を言います。
「信仰」ってなんでしょうか?文字通りに言うと「信じて思い仰ぐこと。」わかったようなわからないような。そうです、他の人が「標準的にはね」と言えない、あなた自身の心のあり方を言います。
イエス様は平和なんだ。敵意って壁なんだ。と考える時、私たちは実は目に見える形あるものと、目には見えない形ないもの、両方のものの中に生きているのだと気付きます。
4年振りにフルバージョンの祝会を行えた今年のイースター。「祝会のフルバージョン?」と言われそうだが、要するに「あれはダメ、これは難しい」などとは言わず、「行いたいことに制限を付けない」と云う程度のものでしかない。そんな中で準備を始めたのだが、結果は4年前とほぼ同じプログラムに落ち着いた。
え、ユダがわざわざ合図をしなければイエス様ってわからなかったの。」この聖書の箇所を読む度に私は思いました。初めてみことばにであわれる方も「イエス様って、そんなにいつもご自分の身を隠されておられたのかしら」「イエス様の正体を暴くために、ユダは合図を決めたのかしら」と思う方も少なくないと思います。...
イエス様はエルサレムという当時の都に入られる時にろばを必要とされます。イエス様は足が痛くて歩けなかったのでしょうか?理由はイエス様にしかわかりません。ただその時にイエス様は子ろばを必要とされました。しかも子ろばと一緒にいたろばも共に引き連れて来られることで、子ろばには必要な安心も与えられました。
死刑の判断がなさようとする時、しかもそれが自分に身に覚えのない濡れ衣で自分は陥れられていることが明らかな時、「そんなこと身に覚えはありません」と裁判を司る人に訴えるか、「助けてくれ!」と命乞いをする人が多いでしょう。
先ほど、お祈りに覚えましたように聖書を読む私たち一人一人は聖霊の働きによって聖書からみことばを聴いています。私も同じです。だからいくら頭の中で覚えて何度も何度も読んでいる言葉でも、聖書を読む度に聖書からみことばが新しく語られます。
「また明日」という言葉を私たちは使います。近所の友達と遊んで別れる時や学校で帰宅する友達と別れる時、会社の仲間と別れる時。「また次の日会おうね」という意味で私たちは「また明日」と言います。また、幼い頃、私は教会で牧師に「永遠のあしたも私たちには与えられているんだよ」と言われ、先生も随分難しいこと...
「キリストの血によって」なんだかびっくりしてしまいますね。イエス様なんて知らなかったのに、そんな私なんかのために?「血によって」ってイエス様が私のために死なれたってこと?そうです、イエス様があなたのために死なれ、あなたのために今も生きておられるということなのです。
あなたは何を恐れますか? 今お読みした聖書の箇所マタイ21:45、46には「祭司長たちやファリサイ派の人々は群衆を恐れた」とあります。私たちは自分に危害を加える可能性がある人や自分を批判するかもしれない人が、なるべくそうしないようにと逃げるか隠れるか、事を荒立てないように穏便に済ませようとするこ...