桃栗三年柿八年とはいうけれど|信仰の成長とは
(165) 「さて、食後のデザートにしようか」と、ある日の夕食後に連れ合いが呟(つぶや)いて、そのまま台所から庭に出て行った。それから1分後に、食卓に...
(165) 「さて、食後のデザートにしようか」と、ある日の夕食後に連れ合いが呟(つぶや)いて、そのまま台所から庭に出て行った。それから1分後に、食卓に...
愛の反対語は無関心です。と言われた方がいました。ふーん憎しみじゃないのか。と少し思いました。
突然、教会の庭に10㎝ほどの穴が現れた。見つけた瞬間、思わず「懐かしい!」と叫んだ私。20年以上前の一連の出来事が、走馬灯のように頭の中を駆け回った。
「天のお父さま、一日(ヒトヒ)の恵みを感謝いたします。きょうも子ども礼拝に集うことができ、ありがとうございます。」
集合写真、これまで何度も撮ってきたはずなのに、今年の集合写真は特別な記念写真のように感じつつ、私は最前列に座っていた。
今朝ご一緒にお読み致しました聖書の箇所に語られているイエス様のお姿は、 いつも聖書に語られている温和でやさしいイエス様のお姿とは全く違い、 激しく怒り悲しむ姿が語られています。 しかし、イエス様は決して感情的なヒステリーを起こして、 周りの人々に当たり散らしたのではありませんでした。
あの日、私は姉と弟と三人だけで、引っ越し先の前にあった保育園のブランコで遊んでいた。両親と手伝いに来た大人たちは、引っ越しの荷物を搬入するので忙しかったからである。
以前観た、住宅を紹介するテレビ番組の中でガラス張りにされたお風呂を紹介する場面があり、なんだか嫌な気持ちになりました。
久しぶりに奏楽者のいない朝礼拝となった。市川教会では午前9時から子ども向けに行われる礼拝を「朝礼拝」と位置付けている。
「こんなはずではなかったのに」と、自分が予想もしていなかった結果にびっくりしたことや後悔したことはありませんか。私たちは物事の結果に期待して、行動することが多くあります。