神に捧げるもの
「えっ、うそ。神様は何の条件もつけないの?」 私たちは一般的に「何かをして、これをしてもらう」というように「自分が希望するとき、相手の要求に対してできるだけ果たしてからしてもらう」というような決まりを当たり前のように思うことが多いのではないでしょうか。
「えっ、うそ。神様は何の条件もつけないの?」 私たちは一般的に「何かをして、これをしてもらう」というように「自分が希望するとき、相手の要求に対してできるだけ果たしてからしてもらう」というような決まりを当たり前のように思うことが多いのではないでしょうか。
保育園運動会前日、天気予報は「晴れ、最高気温23℃、最低気温15℃」とあった。ホッとすると同時に、最近気になっている「寒暖差疲労」という言葉が浮かんできた。
『主に信頼する者は慈しみに囲まれる。』(詩編32:10)と詩人は語ります。「神様に信頼する人はどこにいても安心できる」と詩人は語るのです。誰かを信頼する、と聞いて思い出すのは、昔ドラマで観たシーンです。
「いつもと違って、今年はクラス毎の運動会になりました」と保育園4才児クラス運動会の礼拝で話し始めた2年前。対処法としてはマスク着用・うがい・密を避けるくらいしか出来ない状況の中で、「子どもたちのために何としても運動会を行ってあげたい」と保育士たちが苦心の末に出した方法が、クラス毎の運動会であった。
『天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。』(詩編19:2)と詩人は語ります。「へぇ、神様は大きい物も小さい物も造ったのかぁ、すごいな」って思われるのではないでしょうか。
「おやまのウサギが申します かみさまキャベツ ありがとう」と始まるK保育園10月の園児礼拝讃美歌「山の感謝祭」は、2番では「リスがくるみ」、3番では「サルがおいも」、4番では「小鳥が木の実」と感謝する。
玄関を出ると、金木犀のほのかな香りが…、10m程先の教会庭の金木犀が咲いたのだ。「秋だなぁ~」と呟きつつ、空を見上げると「秋天一碧」(シュウテンイッペキ:見渡す限り青空で、雲一つない空の意)。
『主よいつまでなのでしょう。』(詩編6:4)と詩人は祈ります。祈りというより心の叫びとでも言うのでしょうか。苦しみや悲しみの中にいるとき、私たちは「これはいつまで続くのだろう」と不安になる時が多いような気がします。何が解決になるのか、どうすればここから解放されるのか、そのようにもどかしく感じる時...
「わたしが人生を終える時、自分らしい『死』のあり方・葬儀のあり方などを熟慮して、ここにこの記録を2部作製し、それぞれ教会と家庭に保管します。わたしが天に召されるときには、どうかこの記録に基いて、わたしの希望に添ってくださるよう願います。」
「誰にお願いしてるの?」と思いたくなるほど、すごい言葉遣いだなぁって思うのは私だけでしょうか。それほど、この祈りを祈っている詩人は切羽詰まっているのでしょうか。そう思うと同時に、この詩人にとって神様が本当に身近で、いつも傍に神様を感じているのだろうなと羨ましくもなりました。