不便ではあるけれど、不幸ではない|聴覚障がい者と共に生きるために
私の足音を聞きつけた我が家の犬モモが戸口の前で待っている、私からオヤツをもらうために。モモは白内障によって1年程前から目が殆ど見えていない(ようだ)。
私の足音を聞きつけた我が家の犬モモが戸口の前で待っている、私からオヤツをもらうために。モモは白内障によって1年程前から目が殆ど見えていない(ようだ)。
この挨拶が交わせる「今」というかけがえのない時は、当たり前のことでは決してなくて、神様から与えられるあなたへの恵みです。
少年時代、私が悪いことに巻き込まれそうになる時、悪いことをしそうになる時、心配な事が起こった時、事あるごとに脳裏に浮かんでくるのが「母の泣く顔」であった。
私たち一人一人には大切な宝物があるのではないでしょうか。それは、自分の年齢や環境によって変わる物なのかもしれません。
正直に今日は告白しよう、日曜日の夕方、私がテレビで何を観ているかを。
神様が共にいて下さるって、どのようなことなのだろうと、思いめぐらしている時、電話のベルが鳴り、親戚の訃報を聞きました。
「ぼくしせんせい、かみ きった!?」と、散髪後の最初の保育園礼拝に行くと子ども(たち)に声を掛けられる。
私たちは何かをしたり、誰かに会う時、その場やその人に合わせて服装を整えたり、準備をして備えます。
「通巻3949号」と、今週の市川教会の週報には記されている。「通巻」とは第1号から数えての番号である。
神様に心を向けて、神様に願い事をするときに、私たちは何か捧げ物をしないといけないのでしょうか?