灯される時を待つ|灯されていないローソクが教えてくれること
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いよいよアドヴェント・キャンドル4本全てが灯される。一週目に1本、二週目は2本と灯すローソクが増える度に、クリスマス気分も高揚し、そして「いよいよ」なのである。この習慣は19世紀中ごろから始まったといわれ、「クリスマスっていつ来るの?」という子どもの質問に答えるために作ったらしい。(HP:HyoroWien参照)それほど古くはないが、少なくとも私が教会に行き始めた半世紀前には、すでに行われていた訳だから、「4本のローソク、1本ずつ灯していく」ことは無意識の内に受け入れてきた。
先日、アドベント第二週に入って施設の礼拝に出かけた。「準備できました」と声を掛けられ部屋に入ると、真正面に2本のローソクが立てられたキャンドルスタンド(いや、4本立てられるはずなのに2本しか立てられていないキャンドルスタンドと言った方か正解か)が置かれていた。私の目は点!どう理解してよいのか、礼拝中にあれこれと思いを巡らす。2本しか用意できなかった?いや、今日は第2週だから2本で良いと判断した?考えても分からないので、終わってから、「アドヴェント・キャンドルは灯さなくてもいつも4本用意してね」と頼んで帰宅した。
2本しかない(4つの)キャンドルスタンドに何故私は引っかかっていたのだろう。思いを巡らしている内に気付いたことがある。「1本灯った、2本灯った」ということにのみ意識を向けてしまい、「灯っていないローソクは3本、2本」ということを排除してしまっていないかということである。良くできたこと、成功したことには目を向けるが、失敗したこと、未だ解決していないことには目を背けてしまう。もちろん「褒めて育てる」ということは大切ではあるが、未解決・未成長の部分も存在しているのだ。その意味では、灯されないローソクがあるからこそ灯されたローソクが大きな意味を持つのであり、「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)との聖句は、まさにアドヴェント・キャンドルそのものであると同時に、この聖句は聖書全体を要約していると言えなくもない。
聖書全体を考えると、様々な苦難があり、更には凄惨な事柄にも言及している箇所が沢山ある。カインの殺人があり、アブラハムは自己保身のために妻を妹と偽る。創世記から始まる聖書全体は人間の愚かさのオンパレードであるが、「それでも見捨てない神」を告げているからこそ「聖書」なのである。だからこそ、灯されていないローソクに目を向け、暗闇から光を待望する信仰こそが私たちの人生を導くのであろう。その時にきっと聞こえてくるはずだ、「恐れることはありません」とマリアに告げられた天使の声が。なぜならその言葉は闇を抱えた私にもあなたにも語られているのだから。