人の話は体のすべてで聴く
第四章 自戒するとき
人はだれしも自分自身のなかにあるいやなものを見つめたくはない。同時に、だれひとりとして自分のなかにいやなものをもたない人はいない。自戒するとは、自分のなかのいやなものと正面から向き合うことである。向き合うことによって、いやなものを捨てることが自戒ではない。自分にとっていやなものが果たしてきた意味を知ることであり、そこから新しく生きる自分を学び取ることが自戒である。そのとき、いやなものはただいやなものとしてあるのではなく、新しい自分をつくるためのエネルギーとしてあると受けとめることである。
わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。(ヤコブの手紙1章19節)
【解 釈】 人はしばしば結論や答えを早く求める性癖がある。そのほうが相手に対して優位に立つことができるとでも思っているからであろう。しかしそのようなときには、相手よりは自分の気持ちが優先している。つい饒舌(じょうぜつ)になり、相手が自分の思うようにならないと腹立たしくもなる。
カウンセリングでは、まずなによりも相手の言うことをよく聞きなさいと言われる。これは簡単なことのように見えるが、実はたいへん難しいことなのである。相手の話を聞くということは、聞こえていることとはちがう。聞こえるとは受動的である。聞くとは能動的である。積極的に聞くことを傾聴と言っている。耳を傾けて聞くのである。耳を傾けて聞くとは、相手の身になって聞くことである。聞いているときには、自分の世界よりも相手の世界があるのである。
「聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅く」とは、自分より相手を優先している姿である。それこそカウンセリングの極意と言ってよい。それほど相手の身になって話を聞くので、相手も自分の問題に洞察を得るようになる。
【こころ】 人の前で上手に話すのがスピーチなら、人の話を上手に聞くのがカウンセリングと言えるでしょう。しばしば、この聞くということを聴覚のことと勘違いしている人がいます。聞くとは耳のことではなくて、態度のことなのです。耳でなく体で聞くということになります。カウンセリングの世界ではよく傾聴という言葉が使われますが、まさしく耳を傾ける態度なのです。
あるカウンセラーは、来談者がとても能弁家だったので相槌を打ついとまもなく、立板に水を流すような話しぶりをただ唖然として聞いているばかりでしたが、ひとしきり話したあと、来談者がこう言ったそうです。
「夫は私が話し始めると、お前はおしゃべりだとか、いいかげんにしろとか言って、すぐ話をさえぎります。ときにはテープをもってきます。口に貼るためです。でも、あなたは今日はずっと私の話を聞いてくださいました。考えてみると、ほんとに私はおしゃべりですね」
カウンセラーが一言も口を差し挟まなかったことで、この人は自分に気づいたのです。
もしカウンセラーが聞くということをなまじカウンセリングの技法程度と考えていると、きっと途中でなにか言いたくなったり、いいかげんなところで話の折り合いをつけたくなったりしたかもしれません。もしそうだとすると、この来談者は自分を取り繕ってしまって、スムーズに自分の気持ちを出せなくなったことでしょう。唖然として顔を見つめているカウンセラーの態度は、かえってそれが来談者にとって、ありのままの自分を受け入れてもらっているという印象を与えたにちがいないのです。
賀来周一著『実用聖書名言録』(キリスト新聞社)より