一人一人を通してこぼれる命の光
祈り)天の神様、私たち一人一人に新しい目覚めを与えて下さりありがとうございます。
「次に目覚めを迎える場所はここだ」なんて思っていても、違う時も、自分が思った通りの時もあります。
しかし、神様が知らない場所はありません。
神様がたくさんおられるのではなく、どこにでもいて下さるのです。
そのようにいつもどんな時でも、私がどこにいたとしても、必ず私と共にいて下さる神様に、心を向けることができますように。
これから語られますみ言、この語る者を通して今、み言から聴くお一人お一人へ、
そしてお一人お一人の心にあるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを、主イエスキリストのみ名によってみ前にお捧げ致します。
アーメン
わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。(ヨハネ8:12)
命を持っていない方はおられますか?命は目に見えなくても、私たちは「持っています。」と、自信をもって言うことができます。なぜでしょう?手が動くから?足が動くから?目に見えて動くものを確認できなくても、皆さん命が与えられています。
それなら、あなたは「命の光」を与えられていますか?と聞かれても、「わからない」と答えられる方が多いかもしれません。「命の光」は懐中電灯や部屋の照明器具のように、自分の目で確認したり、触って確認出来るものではないからです。しかし、命と同じように、必ず一人一人すべての方に神様は「命の光」を与えて下さっています。
神様から与えていただく”光”は、自分を照らして、自分が便利であるために与えられているのではなく、小さな光でもあなたを通して他の人に温もりや優しさの光を与えるために、神様があなたに与えられています。だから、自分自身はわからないけど、あなたは”世の光”とされるのです。
よく私たちは「土の器」であるとたとえられます。「土の器」を持つ時、そっと持つ人が多いような気がします。割れないようにそっと。もしかしたら持つ人の優しさが、器を包むのかもしれません。「土の器」は冷たい物がもられても、熱い物がもられても、
器を持つ人に直接、温度を伝えることはありません。「土の器」は割れやすく、ヒビが入ります。しかし、その「土の器」をくっつけたり、何とか繋ぎ合わせて器の中に光を入れると温もりある優しい光が周りへこぼれます。
私たちも同じではないでしょうか。破れや傷、痛みが多いほど、周りへ神様からいただいている「命の光」をこぼすことができるのではないでしょうか。
これはきれい事ではなく、お一人お一人が直面される、目には見えず、私たちには触ることもできない痛みや傷なのかもしれません。しかし、あなたの痛みや傷でさえも神様が共に負って、そのままあなたの「命の光」として用いて下さいます。
あなたが傷ついていても病んでいたとしても、まるごとのあなたが神様にとって大切だからです。