第一課 天地創造

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神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めてよかった。          創世記1章31節

スクリーンショット 2015-08-05 15.07.56聖書がここで用いた「造る」という言葉は神が創造するとき以外には使われない言葉です。この言葉には、造ったらそれでおしまいというのでなくて、造ったものを維持し、管理し、完成に導くという意味があります。それは、存在するということは、ただたんに「ある」という以上のことを意味するからです。「ある」ということが次第に形をとり、成長し、やがて完成に至る道筋までも含めて、創造の業なのだということを聖書の創造物語は教えるのです。創世記1〜2章を読めば、創造は混とんとした状態に始まり、終わりには「よし」とされていく生成の過程であることがよく理解できるでしょう。
神の創造は、未完成から、その終わりは「極めてよかった」とされる完成へのプロセスなのです。存在そのものが「よし」とされて完成するのです。

人がもっとも安心するのは「あなたがそこにいるだけでよい」という言葉を聞くときであると言われます。しかし現代の社会生活は「そこにいるだけでよい」とは言ってくれません。「そこにいるだけ」は社会の評価基準からすれば怠け者、無力なる者、人生の敗残者でしかないからです。しかし社会が怠け者と烙印を押すメッセージが人にとってはもっとも安心感を与えるとはまことに皮肉なことです。
創世記には「神はお造りになったすべてのものをごらんになった。見よ、それは極めて良かった」とあります。英語ではIt was very good.と表現されています。goodとは美しいという意味もありますから、存在するものはすべて美しいということなのです。

私たちを取り巻く世界は、学校でも、家庭でも、何事かをすることを促す言葉で溢れています。「頑張れ」、「勉強しなさい」、「努力しなさい」がそうです。人はこれらの言葉を毎日のようにあきるほど聞かされます。世のなかや自分に役に立つためにそうしなさいと言うのです。
もし「いるだけよい」と言おうものなら、「とんでもない。それは怠け者の言うことだ。そんなことで世の中は渡っていけない」とたちどころに反論されるのが落ちでしょう。にもかかわらず「そこにいるだけでよい」という言葉が人に安心感を与えるということはとても大切なことです。その言葉を口にするには、「見よ、それは極めて良かった」という聖書の言葉を思い起こす必要があるでしょう。その言葉を聞きたいと願っている人たちが、この社会には大勢います。あなたもきっとそうでしょうね。

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