第三課 キリストは何を語ったか
イエスさまは、「神の国の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。』」(マルコ1:15、マタイ4:17)という言葉で、その宣教活動を始められました。
「時が満ちる。」とは、「新しい時が始まった」という意味です。ルカが言うように新しい時、神さまの救いの御業の完成へ向かっての時が始まったのだという宣言です。
「神の国は近づいた」。この言葉は、「神の国、終わりの時、完成の時がだんだん近づいてきます。」というような悠長な時の流れを意味しません。台風が近づいた時、「暴風雨圏に入りました」というニュースを聞くような感じです。台風はまだ来ていませんが、もう既にその徴候を感じる感覚です。このニュースを聞くと、人々は台風を迎える準備を始めるでしょう。そのように神の国を迎える準備をしなさい、という切迫感を持った言葉なのです。
それでは、どのように準備すればよいでしょうか。それが、「悔い改めて、福音を信じること」なのです。
「悔い改め」のもともとの意味は。「心の向きを変える」ということです。今まで自分のことばかり見つめていた目を、神さまの方に向けなさいという意味です。そこから何が起こるでしょうか。私たちは旧約聖書で既にモーセの律法を通して、神さまが人間の生き方を示していらっしゃるのを知っています。それに対して、アダムやエバ以来、人間がいかに自己中心的に生きてきたかも知っています。バベルの塔の物語も知っています。「心の向きを変えて」、神さまの前に立つ時、私たちは、神さまの前でいかに間違った、創造主である神さまの御心に逆らっていたかを知らされます。その時、私たち人間のこころには、「赦しを求める祈り」がわき起こってきます。どうしたら赦しを得ることが出来るでしょうか。
イエスさまは、ご自分が地上に来られた意味を次のようにおっしゃっています。「私は(人の子は)仕えられるためでなく、仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と(マルコ10:45)。「身代金」とは。イエスさまの十字架の死のことを指します。つまり、イエスさまが文字通り、私たちの身代わりとなって。私たちが支払うべき罪の代価を払って下さったというのです。「赦し」は、「既に」与えられたのです。イエスさまの無償の愛です。私たちには感謝しかありません。
イエスさまは、このような私たちに対して、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」とおっしゃいました。「イエスさまの愛」は、神さまに反抗する罪人への愛です。敵を愛する愛です。
「隣人を愛せよ」という言葉は、当時もありました。しかし、その場合、隣人とは、自分にとって愛する価値のある人という意味でした。ですから、私たちは自分にとって愛する値打ちのある人を見つけて愛するのです。これが普通の意味での隣人愛でした。しかし、イエスさまの愛は、敵に対しても命がけで隣人となっていく、という全く新しい隣人愛でした。イエスさまの愛は、このような新しい愛の形を創造していく力があるのです。