第十課 詩編を読んで味わう人生の恵み

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味わい、見よ、主の恵み深さを。
詩編34編9節

キリスト教信仰は御利益信仰ではないのだから、家内安全、商売繁盛のような現世御利益とは関係ないと思いながらも、身内の不幸や思いがけない災難に出会うと、折角信仰を持っているのに、これではなんのための信仰かと不信の念を抱くことがなきにしもあらずです。信仰は良いものをもたらすという思いは、どこか心の片隅にあるものです。

ルターは、「信仰とは、神をして神たらしめることである」と申しました。神がいますので神を信じるのであって、わたしが主役になって神を信じるというのは、真の信仰ではないといっているのです。神をして神たらしめるとは、自己を中心とする信仰を否定するものです。パウロの言葉を借りると「我らは神の中に生き、動き、存在する」(使徒言行録17章28節)ことを信じることです。信仰とは神が主役であることを信じることであって、わたしはそのお方の働きを受ける土の器(コリント(二)4章7節)に過ぎません。

土の器に受けたものが恵みであります。土の器だからこそ何を受けたが一層よく分かります。まさに恵みを「味わい、見る」ことができるのです。

ある婦人が、「がん」を患い、医学的には快復の見込みはないと宣告されたのでした。ある時、病床を訪問すると「先生は私のところにおいでになると,病の時も恵みの時とお祈りなさいます。私の知り合いは別の宗教を信じていますが、私を訪ねると、その方の宗教を信じなさい、そうすれば病気が治ると言います。私は信仰をもっていますから、その信仰によって治ると祈ってくださいませんか」と言われました。そう言った、すぐ後に「でも、病気の時も恵みの時ということが、私にとっての真実ですね」と言葉を加えられたのでした。もはや、病気はもや癒されることはない。だからこそ、この死に向かう、今の時が恵みの時である、そのように現実を受け止めることが、「私の真実」である。まことに見事な信仰の告白でした。

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