一番大切な「とき」 

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​ 11:12 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。 11:13 そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。 11:14 イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
  

 

  

祈り)
天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。

当たり前に迎える朝なんて本当は私たちにはありません。
しかし、そのかけがえのない一瞬一瞬に気付くことは、なかなかできない私たちです。
そのような私たち一人一人でも、神様は変わらず愛していて下さいます。
そして、私たち一人一人は無力でとてももどかしく思いますが、
そのような私たちでも、
自分たちといつも共におられる神様へ祈ることができます。
私たち一人一人を祈る者として用いて下さい。

これから語られます神様あなたからのみ言、この語る者を通して
神様あなたがここにおられるお一人お一人へとお語り下さいますようお願いします。
この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお捧げ致します。

アーメン。

『イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。』マルコ11:14

 

おはようございます。
このようにお一人お一人と出会い、挨拶を交わす「今」というかけがえのない「とき」が与えられていますことを感謝致します。
それと同時に、今もなお混乱のただ中にあるお一人お一人のことを覚えて祈るしかありません。

宣伝の入らないテレビ番組がNHK以外にもあることがとても不思議です。
アメリカで起こった同時多発テロの報道をテレビで観ているときも思いましたが、
暖房も灯りもつく中、家族と「怖いね」と言いながら
テレビで被害に遭われた所のニュースや人々の様子を観ている自分はなんなんだろう。。
と考えてしまいます。
事故に遭う人、遭わない人。悲しむ人、あまり関係がないと冷静な人、
今の自分を生きるのに一生懸命な人、いろいろな立場の方々がおられます。
また、そうじゃないと世界は成り立たないのかもしれません。
しかし、どんな平和の中にいても神様に心を向けている私たちは、
テレビや新聞で観る被害に遭われているお一人お一人も
神様に造られ愛されている存在であることを知っています。
そして何よりも一人一人の苦しみや悲しみ、呻きと共に神様が痛みを覚えて下さり、
イエス様がそれらを共に担って下さっておいでであることを、私たちは知っています。
私には何もできない、と嘆くのではなく、
私には祈ることができると、祈ることが許されている今を感謝しましょう。

今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所は、
いかにもイエス様がご自分の空腹を満たしてくれなかったいちじくの木に呪いをおかけになったように読めて、
とても難しく思いましたが、どうでしょうか。
み言に心で聴いてみますと神様からの「とき」を感じます。
イエス様がいらっしゃる「とき」、それは私たち人間には計り知れません。

しかし、イエス様が来られる「とき」は何よりも大切です。
それは誰もが予想できませんが、誰もにふさわしい「とき」なのです。
「実のなる季節ではなかった」という前に、
イエス様の「とき」に気付くことが私たち一人一人には大切なのです。

今、祈る「とき」を与えられていることを感謝します。

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