生かされている今を生きる

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使徒3:1-10
​ 3:1 ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。 3:2 すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。 3:3 彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。 3:4 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。 3:5 その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、 3:6 ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」 3:7 そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、 3:8 躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。 3:9 民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。 3:10 彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。
  

 

祈り)
天の神様、今日も私たち一人一人に新しい命、新しい目覚めをありがとうございます。
何も変わらない、新しくも何ともないと思う平凡な毎日に感じることがあります。
しかし、平凡な毎日と感じる今があることは幸せなことかもしれません。
今与えられている出会い、毎日同じように動き回れること、
怒ったり笑ったりふざけ合ったり。

たくさんの平凡に「ありがとう」と感謝できる私たちでありますように。

これから語られますみ言、この語る者を通して
ここにおられるお一人お一人へと神様、あなたがお語り下さい。
この語る者の全てをお委ねいたします。

このお祈りを、主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。

アーメン。

 

「ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」」使徒3:6

 

おはようございます。
神様である聖霊は、私たちの過去や未来、現在、
一体どの時に一緒におられるのでしょうか。
答えは「今」です。
過去であっても過去に生きていた「今」、
未来であっても私たちが生きる「今」、
そして現在を生きている「今」の一人一人と共におられます。
なので聖霊というものは、どこかの得体の知れない浮遊物でも怪しいものでもなく、
一人一人の「今」この時に共におられる神様のことなのです。
それは私たちが意識しようとも意識しなくとも、
共にある空気のようなものと言えばそうかもしれませんが、
空気と違うのは、あなたにいつも愛を送って下さるということです。

また、私たちは祈るときに
このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。アーメン。」と言います。
どこの誰かわからない相手にではなく、
神様である主イエスのお名前を通して祈ります。
ここには「私の願いを神様に委ねます。」という願い、
すなわち「神様が大切な一人一人に一番良いものをお与え下さいます。」という願いを言葉にしています。

今ご一緒にお読み致しました聖書の箇所においても、ペトロはこう祈ります。
ナザレ人イエスキリストの名において立ち上がり歩きなさい。」と。
そして祈る前、男に「わたしたちを見なさい」と言います。
私たちも祈る時、いろいろな思いや期待があるでしょう。
しかし、まっすぐと神を見上げ祈る時に、
私たちは一人一人に必要なものを神様が与えて下さることを感じることができます。
一番大切なことは、私たち一人一人を一番大切にして下さる神様に
今」を委ねることなのです。
頭でいくら考えてもわからないことかもしれません。
でも簡単なことです。
一人一人の命は「今」神様に与えられ、
生かされている」ということなのです。

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