
神様のみ心に従う
「神様からのお導きで」とか「イエス様のお導きで」という言葉はなんの抵抗もなく私たちは聞きますが「霊のお導きで」というのはなんとなく怪しいように聞こえることがないでしょうか?
「神様からのお導きで」とか「イエス様のお導きで」という言葉はなんの抵抗もなく私たちは聞きますが「霊のお導きで」というのはなんとなく怪しいように聞こえることがないでしょうか?
今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所「使徒3:1-10」において、ペトロというイエス様の弟子の一人である人が、仲間のヨハネと、生まれつき足が不自由で歩くことができなかった人を自分の足で立ち上がって歩けるようにする奇跡を行います。
最近、私は特に思うことがあります。それは自分は入院した病院から帰ってこれるのだろうか、と不安に思うことです。
これから別の所へ行くことになるパウロさんが自分が信頼していて、他の民衆も信頼しているであろう人たちを呼び寄せてパウロさん自身がいなくなった後のことを託します。
神様は特別な人だけ選び、まるでその人を物であるかのように扱う方なのでしょうか。いいえ違います。
神様である聖霊は、私たちの過去や未来、現在、一体どの時に一緒におられるのでしょうか。答えは「今」です。
「あなたは神を信じますか?」昔、何かのコマーシャルで、英語なまりの怪しい宣教師風の外国人がこの言葉を話していたような覚えがあります。 「あなたは神を信じますか?」キリスト教というと、今でも外国からきた宗教というイメージがあって、 外国人の宣教師や神父、牧師がやさしく良いお話をして下さるというイメ...
聖書で語られているペトロさんやヨハネさんが言っている「わたしたちが見たり聞いたりしたこと」ってイエス様が行われた奇跡や話された言葉の数々のことなのでしょうか。
ご一緒にお読みしました聖書の箇所の中で「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。」(使徒17:24)とパウロは語りかけます。
「自分はたった一人で生きてきた」とおっしゃる方はおられますか?ほとんどのことをご自分で決断し、なるべく人に迷惑をかけないように生きてこられた方がおられたとしても、神様が関わってこられなかった方は一人もおりません。たとえ、自分が独りぼっちで泣いていると思っておられたとしても、一人悩んでいたと思った...