完全ではないから
祈り)
天の神様、新しい目覚めを私たち一人ひとりにありがとうございます。
私たちは天変地異の出来事に驚いたり、
ちょっとした些細な出来事にうろたえたりします。
すべてのことの大きさや深さの感じ方は、私たちのその時の心の状態によって違って来ます。
しかし神様あなたからの愛は、たとえ私たちの感じ方が変わっても
その愛の大きさも深さも決して変わることがありません。
私たちはそのようなあなたからの愛や慈しみに信頼し、
委ねていくことができますように。
これから語られますみ言葉、この語る者を通して
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてをお委ねいたします。
このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン。
教会で、ポスターのこんなキャッチフレーズを目にしたことがあります。「命って誰のもの?」というもので、それはどこかのキャンプで今回テーマにされるものをアピールするものでした。「命って誰のもの?」一言で「命」と言っても自分の命、植物や動物の命、光や風。私たちの周りには様々な命に溢れています。
私は思春期の時だったでしょうか。「こんなに辛い毎日を過ごすのなら死んでしまったほうが楽かも」なんて思ったことがあります。今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所を読んでいてそう思ったことがあることを思い出しました。この詩編ではどんなに苦しくて惨めな状態でも詩人は祈っています。
「命」が自分のものであると思うとき、人は簡単に殺したりなかったなものとして扱うことができてしまうのではないでしょうか。それは実際に殺さなくても無視をしたり無関心になったり。自分に対しても、人や物に対してもです。しかしそれは孤独や憎しみ、悲しみしか生みません。でも「命」は神様から与えられているものであると思う時、私たちにはお互いに関心を持つという大切な心の繋がりが生まれるのではないでしょうか。