完全ではないから

詩編22:13-22

22:13 雄牛が群がってわたしを囲み
バシャンの猛牛がわたしに迫る。
22:14 餌食を前にした獅子のようにうなり
牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。
22:15 わたしは水となって注ぎ出され
骨はことごとくはずれ
心は胸の中で蝋のように溶ける。
22:16 口は渇いて素焼きのかけらとなり
舌は上顎にはり付く。
あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。

22:17 犬どもがわたしを取り囲み
さいなむ者が群がってわたしを囲み
獅子のようにわたしの手足を砕く。
22:18 骨が数えられる程になったわたしのからだを
彼らはさらしものにして眺め
22:19 わたしの着物を分け
衣を取ろうとしてくじを引く。

22:20 主よ、あなただけは
わたしを遠く離れないでください。
わたしの力の神よ
今すぐにわたしを助けてください。
22:21 わたしの魂を剣から救い出し
わたしの身を犬どもから救い出してください。
22:22 獅子の口、雄牛の角からわたしを救い
わたしに答えてください。

祈り)
天の神様、新しい目覚めを私たち一人ひとりにありがとうございます。
私たちは天変地異の出来事に驚いたり、
ちょっとした些細な出来事にうろたえたりします。
すべてのことの大きさや深さの感じ方は、私たちのその時の心の状態によって違って来ます。
しかし神様あなたからの愛は、たとえ私たちの感じ方が変わっても
その愛の大きさも深さも決して変わることがありません。
私たちはそのようなあなたからの愛や慈しみに信頼し、
委ねていくことができますように。

これから語られますみ言葉、この語る者を通して
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてをお委ねいたします。

このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。

アーメン。

主よ、あなただけはわたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ今すぐにわたしを助けてください。(詩編22:20)

教会で、ポスターのこんなキャッチフレーズを目にしたことがあります。「命って誰のもの?」というもので、それはどこかのキャンプで今回テーマにされるものをアピールするものでした。「命って誰のもの?」一言で「命」と言っても自分の命、植物や動物の命、光や風。私たちの周りには様々な命に溢れています。

私は思春期の時だったでしょうか。「こんなに辛い毎日を過ごすのなら死んでしまったほうが楽かも」なんて思ったことがあります。今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所を読んでいてそう思ったことがあることを思い出しました。この詩編ではどんなに苦しくて惨めな状態でも詩人は祈っています。

「命」が自分のものであると思うとき、人は簡単に殺したりなかったなものとして扱うことができてしまうのではないでしょうか。それは実際に殺さなくても無視をしたり無関心になったり。自分に対しても、人や物に対してもです。しかしそれは孤独や憎しみ、悲しみしか生みません。でも「命」は神様から与えられているものであると思う時、私たちにはお互いに関心を持つという大切な心の繋がりが生まれるのではないでしょうか。