新しい命を与えられて生きる

祈り)
天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
暑さや寒さが、毎年少しずつ違ってきているように私たちは感じます。
でも、夏の次には秋が来て、冬になって春が訪れると、
私たち一人一人の心は四季があると感じることができます。
このように、私たちは確かに神様、あなたから与えられる恵みを自然に受け入れています。
一つ一つに文句や不平を言うこともあれば、感謝の心や言葉が溢れることもあります。
しかし、どんなにちっぽけに思えたとしても、どんなに私たちが迷惑に感じることがあっても、
神様、あなたからの愛はいつも私たちに注がれています。
そして、一人一人と共に今もここに共におられます。

これから語られますみことば、この語る者を通して
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。

このお祈りを主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します。

アーメン。

【参照聖書箇所:エフェソの信徒への手紙 2章1〜10節】

なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。(10節)

 

「今日は朝からイエス様のお話を聴いたから一日私は良い行いができるわ。」と張り切ったとしても、自分の理想通りに動けなかったり、思っていたような結果が出なかったりして「やっぱり今日もダメだったわ。」とか「私ってやっぱりダメね。」と思ったりしたことがあるのではないでしょうか。うまくいかなかったことは全部自分のせいにしないで、全てを周りの人たちのせいにして自分を正当化してしまうこともあるかもしれません。

私は高校生のときに洗礼を受けました。教会で洗礼を受けるということは、きっとこれまでの自分とは違わなくてはいけないんじゃないかと緊張しました。例えばいつもニコニコしてなくてはいけないとか、あまり怒ってはいけないとか、それこそ聖書に書かれているイエス様のように生きなくてはいけないとか。洗礼を受けてクリスチャンと呼ばれるようになったら、こうならなければいけない私に変われるんだと、どこかで意気込んでました。本当にそうなんでしょうか。

イエス・キリストによって生きるようになるとは、外見や行いが今までとは違う人間になることではありません。でも、変わります。では、何が変わるのでしょうか。それは「自分が生きていてもいいんだ」「私は今も神様に愛され大切にされている」「イエス様と共に生かされているんだ」と、ただ受け入れるだけなのです。
神様に造られ、命を与えられ、今も愛されている人の生き方は、その人自身の生き方です。ただ神様は、今もあなたがあなたらしく、そのままを生きるようにと包んで下さいます。

関連記事