喜びに溢れて今
祈り)
天の神様、新しい目覚めを私たち一人一人に与えて下さりありがとうございます。
「私はここにいていいのだろうか。」と急に不安になったり、
自分を孤独に追いつめてしまうことがあります。
そのような私に、神様あなたは「あなたはここにいていいんだよ。」とやさしく愛で包んで下さいます。
今ここに、神様あなたが共におられ、私を必要として下さり、
私にここにいる「時」を与えて下さっています。
神様、あなたがいつも私と共にいて下さるので、私は決して一人ではありません。
そのことを感謝して生きる毎日でありますように。
これから語られますみ言、この語る者を通して、
ここにおられるお一人お一人へと、
そしてそれぞれの心にある方々お一人お一人へと
神様あなたがお語り下さい。
神様あなたに全てをお委ね致します。
このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン。
【参照聖書箇所:ヨハネによる福音書1章10〜13節】
言(ことば)は世にあった。(10節)
「あなたから言葉は決してとられない。」この言葉は何年も前、病院の診察で私がお医者さんに言われた言葉です。自分の病気の診断を受けたばかりでいずれは自分の話す言葉も人には伝えにくくなるだろうという不安から、お医者さんに「いったい何年後くらいに喋り辛くなりますか?」と私が聞いた時のお医者さんの答えでした。先日、私はいつも一人でいらっしゃる方に「どうしてお一人の時が多いんですか?」とお聞きした時に、その方が「こんな喋り方だから。」と言われ、喋り方に苦労されているその方に思わず同感すると同時に、何年か前にお医者さんに言われた先ほどの言葉を思い出しました。
今お読みしました聖書でも言(ことば)と言う言葉が繰り返されています。これは単なる言葉のことではなく、真理や誠、愛であるキリスト教で言われる神様、イエスキリストのことを、この福音書を書いたとされているヨハネが表現した言葉です。昔、日本に来たばかりの宣教師たちがそこで暮らしている農民に「神の愛」をわかりやすく伝えるために「デウスのご大切」と表現したように、その時代そこに生きている人々に、 真理や誠、愛であるキリスト教でいわれる神様、イエスキリストを言(ことば)という言葉を用いて表現されたようです。どうしてそんな面倒くさいことをしてまで、と思われる方もおられるかもしれませんが、そこまでしても今も私たち一人一人と共に生きて働かれておられる神様が、どのような存在であられるのかを知って欲しいからです。それは私たち一人一人の喜びから溢れるもの以上に神様の喜びなのです。
私は今、思います。何年も前、私に「あなたから言葉は決してとられない。」と言われたお医者さん自身は、そんなに深い意味で言われたつもりはないかもしれません。が、私が恐れていた病気の進行は今、現実になって来ていますが、言(ことば)である神様が今、私と共に歩まれて下さっておられることを喜び、また確信しています。
お一人お一人と共に今、言であるイエスキリストは喜びに溢れ、生きておられます。