あなたのために
祈り)天の神様、私たち一人ひとりに新しい目覚めをありがとうございます。
私たちにはたくさんの別れがあり、新しい出会いも私たちに与えられます。
それら一つ一つに私たちは悲しみを覚えたり、喜びを感じたり、さまざまな思いをし心動かされます。
しかし、神様あなたとの出会いはたくさんの何かを通して与えられますが、
決して神様、あなたと別れることはありません。
たとえ私自身はうっかりあなたを忘れてしまうことがあっても、神様、あなたは私を忘れないからです。
ありがとうございます。
これから語られますみことば、この語る者を通して
ここにおられるお一人お一人へと、そしてそれぞれの心にある方々お一人お一人へと
神様あなたがお語り下さい。
神様あなたにすべてをお委ね致します。
このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン
【参照聖書箇所:マルコによる福音書14章43〜55節】
そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。(48節)
「えっ、ユダがわざわざ合図をしなければイエス様ってわからなかったの。」この聖書の箇所を読む度に私は思いました。初めてみことばに出合われる方も「そんなにイエス様っていつもご自分の身を隠されておられたのかしら」「イエス様の正体を暴くためにユダは合図を決めたのかしら」と思う方も少なくないと思います。
でもイエス様は言われます。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、…」と48節、49節と続きます。「聖書の言葉が実現するためである。」とも続けられています。イエス様は逃げも隠れもしていません。
ならばイエス様は何を大切にされておられたのでしょう。それは神様の御心です。「聖書の言葉が実現するためである。」というのは「神様の定められる時を大切にされる」ということでもあります。ユダもイエス様を大切にしてました。しかし、ユダが大切にしていたのは、きっと神様の御心に従われるイエス様ではなく、奇跡を起こされてユダ自身が考える英雄であるイエス様だったのかもしれません。だから、イエス様を捕らえようと構えている人々に合図をするというように自分が合図するまではイエス様に手を触れない、という決まりを作ることでイエス様に「捕らえに来ました。逃げて下さい。」と合図を送ったようにも感じ、もしかしたら自分も祈ったり願う時、ユダと同じことをしてしまっているのかもしれないと感じました。ユダの合図も空しくイエス様は捕らえられて行きます。しかし、イエス様は従われます。神様の御心に。イエス様を捕らえた群衆や兵士たちではなく、神様の御心にイエス様は従われます。神様の御心、それは私たち一人一人が神様に大切にされているということを
私たち一人一人がイエス様との出会いを通して思い起こすことができるようになのです。
神様の御心のままにこの身になりますように。