形ないものも

祈り)

天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
私たちは別れも経験しますが出会いもたくさん経験します。人との出会いや自分との出会い様々です。
その中に神様との出会いもあります。しかし、不思議な事に神様との出会いが与えられても神様との別れはありません。
私が忘れても神様は私をいつも覚えていて、一人一人を愛して下さいます。
そして、私が神様を知る前から、神様は一人一人を知っていて下さいます。
なぜなら、私たち一人一人の命は神様によって造られ、今、神様によって愛されているからです。
どんな自分でも、神様に愛され守られている今をそのまま生きる自分でありますように。

これから語られますみ言葉、この語る者を通して、
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てをお委ねいたします。
このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。

アーメン。

【参考聖書箇所:ヨハネによる福音書3章16〜21節】

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。(16節)

「あなたを愛している」と言われて、「はい、そうですか。ありがとう。」と言える人はいらっしゃるでしょうか。それより「どのくらい私のこと愛してるの?」と聞いてみたり、「証拠を見せて」と言ってみたり、いろいろな反応があるのではないかと感じます。それは「愛」というものには、形も色もなく「私が信じる」ということがないと、愛の関係は成立しないからです。

神様も見えません。愛も見えません。人の心や命も見えません。私たちの周りにはたくさん見えないものがあって、それらの見えないものも信じていなければ生きられません。それなのに、いかにも見えるものや、わかるものでなければ信じられないと思ってしまうのも私たち人間です。「私は子供を産んだことがないから、神様の愛の大きさなんてわからないわ。」と、私も言ってしまうかもしれません。ただ、私にも「命」があります。

前回、皆様と共に聴いた聖書の箇所は、イエス様を十字架につけろ、と叫ぶ人々の様子が語られている箇所でした。そして今、与えられた箇所は、神様の愛の深さを私たちに語られています。見える形での「処刑」。見えない「命」。そして、与えられている「愛」。

見えるものも、見えないものもたくさん与えられて、私たちは今を生かされていることに感謝して歩んで参りたいと思います。