トラブルに遭った時の聖書~本当に因果応報?~
祈り)
天の神様、おはようございます。新しい目覚めをありがとうございます。
私たちは今、生きています。
あなたに与えられていなければ、この命も笑顔も空気も光も、たくさんのものの中で生きることができません。
なのに私たちは今日もあれができなかった、あれもなかったなどと足りない物や不満をたくさん見つけて、神様、あなたに不平不満をぶつけてしまいます。
あるときは「あれも下さい」と祈ります。
しかし、私たちは神様にたくさんの恵みを与えられて生きています。
それらの恵みを当たり前であるかのように見過ごしてしまうのではなく、
「神様ありがとう」と祈れる私たちでありますように。
「ありがとう」という言葉は何度言っても減りません。
減るどころかたくさんの人々を幸せにします。
これから語られますみ言葉、この語る者を通してここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてをお委ねいたします。
このお祈りを、主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン。
【聖書】詩編38編1〜13節
主よ、怒ってわたしを責めないでください。
憤って懲らしめないでください。
私たちは何か悪い事をしたからこんな目に遭うんだと、何か理由がなければこんなことが起こるはずはないと思い、自分に起こっている不幸に感じる出来事の理由を探そうとします。因果応報という言葉で解決しなければいけないように思っている人が多いのです。
ご一緒にお読み致しました聖書の箇所においても、多分重い皮膚病を患い、朽ちたり膿んでいく自分の体、とうとう視力まで失ってしまった詩人の嘆きの祈りです。「神様、何か私は悪いことをしたのでしょうか。」
私はこの詩編を読むと、神学生の時に学ばせていただいた施設のことを思い出します。それはハンセン病のために家族の戸籍からも消され、隔離され、生殖機能も絶たれても、なお生きなければいけなかった人々の暮らす施設でした。私は何のために生きているのか。そんな悲鳴ともいえる言葉に、ただただ耳を傾けることしかできない実習であったことを思い起こします。
悪い事をしたから苦しい現実が起こっているのでしょうか。病気に限らず、自然災害や事故、それら目に見えることではなくても、お一人おひとりの心の中でもたくさんの苦しみや悲しみが起こる時があります。
それは神様からの報復ではありません。近くにおられる神様を感じることのできる恵みです。恵みだから喜んで受けないといけないことはありません。怒りや悲しみ、涙の中にあってもあなたは一人ではない。あなたは神様に信じられ、必要とされ、存在していることを、いつも共におられる神様があなたにささやいて下さいます。「大丈夫、一人じゃないよ。一緒に受けて、一緒に乗り越えよう」と神様は言われます。
神様から必ず、あなたにふさわしい「時」が与えられます。