全ての一人一人が神様に大切な存在だから

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祈り)天の神様、新しい目覚めを与えて下さりありがとうございます。
あなたから与えられる一瞬一瞬のかけがえのない時を重ねた一日を、
ただなんとなく過ごしてしまう日や忙しくて何も考えずに終わらせてしまうなど、いろいろな過ごし方の日があります。
このような私でもいいのでしょうか?
このように祈りながら迷う私でも、神様あなたはそのままの私をしっかりと受け止めて下さいます。
ありのままに生きにくい今、ありのままの自分がよくわからない今、
様々な私の今をそのまま受け止めていて下さる神様に心を向けることができますように。

これから語られますみことば、この語る者を通して今、聖霊のお導きによって聖書から聴くお一人お一人と
皆さんの心にあるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てを神様あなたにお委ねいたします。

このお祈りを主イエスキリストのお名前を通してみ前にお捧げ致します。
アーメン。

【参照聖書箇所:使徒言行録13章44〜47節】

主はわたしたちにこう命じておられるからです。「わたしは、あなたを異邦人の光と定めた。あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために。」(47節)

「異邦人」「地の果てまでに」と言葉だけ聞くといくら聖書でも差別的にも聞こえるし、極端にも聞こえるような気がするのは私だけなのでしょうか。

 今、共に聴いた聖書の中で語られるみことばは聖書に登場するパウロやバルナバだけに語られているわけではなく、あなたへ今、神様から語られています。聖書が書かれた時代「異邦人」とは特にユダヤ人ではない外国人に対して差別的に使われもしていた言葉でもあります。

 私たち人間はたまに、どこの生まれか、どういう育ちであるかで人を判断してしまったり、この組織にはふさわしくない人間だとはじきとばしてしまったりしてしまう時があります。聖書に書かれているこの時代もユダヤ人ではない外国人の異邦人たちは神様からのみ言を聞くことさえふさわしくない者たちとされていました。しかし、当時異邦人とされていた人々も神様に造られ大切にされています。パウロやバルナバはその異邦人と呼ばれるユダヤ人以外の外国人たちにも「神様はあなたを大切にされています」と伝えてくれるようにと神様に用いられます。今、共に聖書から聴くみ言は神様からあなたへも語られています。神様はあなたを必要とされるのです。

民族間の差別だけでなく、私たちは何か違いを見つける度に相手を差別したり、自分が知らず知らず誰かを排除してるのかもしれません。ただ、多数決や常識という枠ではなく、目の前にいる人も私と同じように神様に造られ大切にされている存在なのだという枠、すなわち神様からの眼差しを通す勇気を持ちたいのです。神様は「私があなたを選んだのだから勝手にやってくれ」とあなたを突き放されるのではなく、とことんまであなたと共におられあなたを大切して下さいます。だから、あなたは地の果てに行ったとしても一人ではありません。

神様が今、あなたを用いられます。

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