私たちの期待を外れる大きな愛 

祈り)
天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
「当たり前にあることは一つもない」と何人の方が思われたことでしょう。2011年に起こった東日本大震災を通して、たくさんの方がいろいろな出会いや別れを経験されました。私たち一人一人当たり前に思っている日常でも、何一つ当たり前のものはなく、一つ一つが与えられるかけがえのないものです。その一つ一つが神様あなたに与えられていることを思い、神様あなたに「ありがとう」と言えることができることを感謝します。

これから語られますみことばを、この語る者を通して今、聖霊の働きによって
聖書に聴くお一人お一人と皆さんの心にあるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてを神様あなたにお委ねいたします。

このお祈りを主イエスキリストのお名前を通してみ前にお捧げ致します。
アーメン。

【参照聖書箇所:マタイによる福音書27章11〜14節】
それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。(14節)

 死刑の判断がなさようとする時、しかもそれが自分に身に覚えのない濡れ衣で自分は陥れられていることが明らかな時、「そんなこと身に覚えはありません」と裁判を司る人に訴えるか、「助けてくれ!」と命乞いをする人が多いでしょう。無罪ではないにしても少しでも自分の刑が軽くなるようにとたくさん弁解する人が多いと思います。それは現代でもイエス様が生きられていた時代でも同じだと思います。開き直って死刑を受け入れる人がいたとしても、自分の罪をそれなりに自覚していた方なのでしょう。当時の総督だったピラトが刑を下す場所でも同じだったのでしょう。泣きわめいて命乞いをする人が大半の中で、どんなにご自分に不利な訴えをされても反発しようとされないイエス様はピラトには不思議にしか思えませんでした。前例の無いことや自分の常識の枠に入らないことに私たちは戸惑うことが多いような気がします。また自分が期待した通りにならないことにも戸惑うのではないでしょうか。

よく「〇〇のきょうだいだから、このくらいのこと出来るよね」とか「〇〇さんの子どもなのにこんなことも出来ないの」ときょうだいと比べられたり家族に期待されたりしたことはありませんか。それは劣等感になったり優越感になったりして人の心に残ったりします。

 でも神様は違います。私たちには不思議に思えるかもしれませんが神様にとって一人一人はかけがえのない存在です。一人一人は誰とも比べられない、何にも変えられないかけがえのない存在なのです。当時の総督であったピラトにも、そしてどんな立場の人にでも、人間の考える一般の常識という枠にもとらわれず誰とも比べられず、ただ神様に心を向け進まれるイエス様は、私たち人間には不思議にしか思えないかもしれません。しかし神様である主イエスキリストは、私たち一人一人もご自分と同じように、人間が考える一般の常識という枠にとらわれず、誰とも比べられることなく、かけがえのない存在として大切にして下さるのです。

 私たち人間の常識という枠の中の期待から外れた神様からの愛に生かされましょう。