一人一人と共に歩まれるために
祈り)天の神様、私たち一人一人に新しい目覚めをありがとうございます。
「ありがとう」のかたちは一人一人違うかもしれません。
嬉しさでいっぱいの「ありがとう」や悔しさでいっぱいの「ありがとう」、涙こらえてだったり言葉にならなかったり。
でも神様あなたは、私たちの一つ一つの思いを、かけがえのない「ありがとう」として大切に大切に受け取って下さいます。
私たち一人一人が神様にそのままを受け入れていただけることを心から喜べるように強めて下さい。
これから語られますみことばをこの語る者を通して今、聖書から聖霊の働きによって聴くお一人お一人と、
皆さんの心に在るお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてを神様あなたにお委ねいたします。
このお祈りを主イエスキリストのお名前を通してみ前にお捧げ致します。
アーメン。
【参照聖書箇所:マタイによる福音書21章33〜46節】
家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。(43節)
あなたは何を恐れますか?
今お読みした聖書の箇所マタイ21:45、46には「祭司長たちやファリサイ派の人々は群衆を恐れた」とあります。私たちは自分に危害を加える可能性がある人や自分を批判するかもしれない人が、なるべくそうしないようにと逃げるか隠れるか、事を荒立てないように穏便に済ませようとすることが多いような気がします。そういう時は必ずと言ってもいいほど、本当はこれがいいのではないだろうかという思いより、他人からの危害や批判が自分に及ばないようにする方法を選びます。
自分を守る?皆が言うから従う?自分に危害が及ばない事が大事だから。皆の意見が大事だから。何かに怯えて隠れ逃げ回ると、そのうち何でもないことまで疑ってしまったり、びくついてしまう経験はありませんか?イエス様は違いました。私たち人間の目には不思議に見えるほど静かに、そして確かな歩みをされました。多くの人々の批判を浴びようとも。この世の権力者たちから迫害を受けようとも。それらから逃げたのでも隠れたのでもなく感じなかったのでもなく歩まれます。どこへ向かってでしょうか?
それは神様のみ心に従われる道です。イエス様が従われたのは「人間一人一人を大切にされる」神様の、み心でした。イエス様は神様の、み心を畏(おそ)れ神様の、み心に従われます。それは私たち一人一人の人生の一歩一歩に共に在るためです。