あなたに関心があるから

祈り)天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
新しい目覚めはいつも当たり前にあると思って過ごしていますが、
決して当たり前ではなく、神様あなたから一回一回丁寧に、一人ひとりに与えられる恵みです。
自分が目覚めたその現実を喜ぶこともあれば、こんな現実の中なら目覚めたくなかったと神様を恨むこともあります。
しかし、神様はあなたにとって本当に必要な「時」を今、与えて下さってます、
感情的に出したり引っ込めたりするような駆け引きは、神様からの愛にはありません。
そのような日常の当たり前に見えるような些細なことにも神様へ感謝できますように。

これから語られますみ言、この語る者を通して、ここにおられるお一人おひとりへと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてを神様あなたへお委ね致します。

このお祈りを主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します。アーメン

救いは主のもとにあります。
あなたの祝福があなたの民の上にありますように。(詩篇3:9)

もし、自分が透明人間だったらどうしますか?「考えたこともないわ」と言う方もおられるかもしれませんが考えてみて下さい。私は幼い頃、多分反抗期真っ最中だった頃に「透明人間になりたい」と思いました。そうしたら誰にも干渉されず、誰からも監視されず自由にできるような気がしたからです。

でもどうなんでしょうか。本当に今、誰からも見えなくなって、誰からも干渉されず、誰にも監視されなくなったら。「ただいま」と家に帰っても誰にも気付かれず、何か失敗しても誰もわからない。笑っても泣いても怒っても誰にも解ってもらえない。孤独です。実際に姿が見えて触れることができても、見えずに触れることができなくても、そのようなことは起こります。特に現代社会には多いのかもしれません。「無関心」という世界です。

「愛」の反対は「無関心」です。しかし神様は、存在否定して自分自身を見ないようにしていても、あなたが透明人間のようであってもあなたというかけがえのない一人の存在を愛されます

だから一人ひとりは孤独ではありません。今ご一緒にお読み致しました聖書にある「救い」とは孤独からの解放の意味もあります。どこかから助けてもらうことや何か物を与えてもらう、というような一時的な助けより深く、神様は私たち一人ひとりに関心を持たれ一人ひとりを愛して下さっています。たとえあなたが透明人間になったとしても神様には見える見えないは関係ありません。

一人ひとりがそのまま神様に愛されていることをいつも感謝できますように。