私は何をしようか|今、私が為すべき事

image_pdfPDFに変換するimage_printプリントする

 (143)

「友だちは今も避難所にいるというのに、私だけお祝いして良いのだろうかと思うんです。」成人式に出席するために晴れ着の着付けをしていた女性がテレビのインタビューに応えていた。観ている私も思わず頷く。能登半島は私には全く未知の地方だけど、被災された方々の苦悩を思い、心が痛くなる。まして知人友人となると、「彼らの苦悩を思うと、自分だけが楽で良いのだろうか」と、申し訳ない気持ちで心が揺れ動かされるのも理解できる。それは時には罪悪感すら伴ってしまうこともある。

精神看護学アンダーウッド教授は次のように述べている。「災害を経験した全ての人が安心感や豊かな生活の喪失などを経験し、多くの人が心的外傷反応を経験する。そして生き残ったことに罪悪感を持つが、心的外傷反応は非日常的な出来事に対する正常な反応である。回復のためには①災害は予測不可能で、誰も生存するとも生存しないとも選択できず、生き残った者はそれを受容しなければならない。②自分を罰することは、亡くなった人や傷ついた人にとって何の助けにもならないから、そうすることは必要ない。③支援することと、災害に対する人々の反応を非難すべきではないと教育すること。④役に立ちたいと思っている生存者を支援計画に巻き込むこと。」(医学書院HP:「災害後に生じる罪悪感について」聖路加看護大学井部敏子学長論文より、引用は要約)

そして直接被害に遭わなかった人々には、共感疲労(共感ストレス)が起きやすい。共感力そのものは素晴らしいものであるが、被災者やその家族の気持ちを想像して自分の事のように共感するために、無力感を覚えて元気をなくしていくことが起こってしまう。ミャンマー・ウクライナ・パレスチナ・異常気象による災害等々、その度に私たちの共感力が反応する。そんな時はどうしたら良いのか。「必要な情報を入手した後は、そうした映像から離れる。日常生活をいつも通り行う。誰かに思いを伝える。」(1月3日朝日新聞より)何よりも、私たちが日常生活を続けることが、支援する力になるし、記憶し続けることが、当事者の心に寄り添うことになるのだと改めて思う。

「群衆が飼い主のいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタイ9:36)深く憐れまれたからといって、イエスはその場に寄り添い続けられたのではなかった。イエスはイエスの為すべきことのために、群衆を離れて行かれた。それこそが、神が求めておられた事だからである。

与えられた場で、それぞれの日常をしっかり生きること、それがひいては「支えること、繋がること」になるのだから。被災された方々への主からのお慰めを祈りつつ。

関連記事