集いの場が与えるもの|同じ場所に居ることの喜び
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「これが終われば、またいつもの日常は取り戻せるし、ポリープが悪性化する心配も軽減する」と自らに言い聞かせながら病院に向かった。実は3月中旬、大腸にポリープが見つかり、流動食一日・除去手術一日・術後の経過観察一日の計二泊三日入院を言い渡され、先日入院してきたが、その際の病院に向かいつつ思ったのが前述のような前向きな気持ちであった。ところがいざ病院に入り、入院手続きのために待合室に座っていると、後ろ向きな考えが次々に湧いてくる、「隠れた部分に危険な症状が見つかったのでこのまま入院」と言われないか、「二泊三日で帰ってくるからと元気に出かけたけど、それが最後だったなんて」等々。前向きなことは殆ど影を潜めてしまった自分に気付き慌てて打ち消すものの、すぐさま後ろ向きになる。確かに、病院に到着前に私が目にしたものは、元気に歩く若者たちや頻繁に行き交う車、いつもの活気ある日常だったが、待合室では笑い声もなく、殆どの人がうつむき加減に自分の番を待つのみ。周囲の環境の変化が、どうやら私の思考方法(方向)を無意識のうちに変えていたようだ。
待合室で待つこと一時間、病室に入った後は手術の時以外を病室で過ごした私、周囲が目に入らなかったことや除去手術も順調だったこともあって、後ろ向きな考えは殆ど浮かばなかったことは幸いであった。
病院は「病気を治して欲しい」という共通の目的をもった人々が集まる場だが、「集う」という言葉は用いない。目的をもって集まったからと言って隣の人と気軽におしゃべりすること等は殆ど皆無だし、病気そのものも多種多様であり、細部では目的が違ってくるからだ。それでも「病院」という特殊な場所が私たちの心に大きく影響することは否めない。教会の礼拝に集まるということも同様であるが、病院より目的は明快であり、短時間であっても同じ時を過ごしており、その上で私たちは同じ場所に居るということが大切な要素として加味されていることに気付かねばならない。ネットを通して世界中の礼拝に参加できるようになったことは喜ばしい。だが「同じ場所、しかも会堂という場所」に集うという喜びは、何物にも代えがたいものがあり、「その場」が与えてくれる恵みは、信仰の成長にとっては欠かすことのできない「肥やし」なのだと、病院の待合室に教わった先週であった。
「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ。」(詩編100:3)壮大・荘厳な神殿の中で、古のイスラエルの民は大いなる感謝と誇らしさをもってこのような賛美の声を上げたことであろう。