思惑どおりにいかなくても

第五章 岐路に立ち選択するとき

人生は選択の結果である。人生の結果に影響するのは、環境と出来事、そして生まれつきの素質であり、加えて自己の決断がある。環境と出来事と素質は変えることができないが、しかしそれだけで人生が決定されるわけではない。人生を最終的に決定するのは自己の決断である。その決断は、環境や出来事や生まれつきの素質にもかかわらず、それらを超えて人生を決定する。その決断を促すものはなにか。それを発見した者こそが人生に勝利する。

わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。(イザヤ書55章9節)

【解 釈】 この聖書の言葉の背景には、紀元前587年にバビロニアによるユダヤ滅亡という国家的悲劇が起こり、滅ぼされたイスラエルの民が半世紀以上にわたって異国の地で奴隷の生活を送るという出来事がある。そこからの解放のため、神が強い力を発揮して、救い出してくださるにちがいないと人々は期待した。ところが、解放者としての王メシアの姿はどこにも見いだすことはできなかった。次第に絶望的な雰囲気が高まるなか、彼らのなかに生まれたメシア像は、捕囚の苦しみを共にする苦難の僕の姿を取ったメシアであった。強さではなく、弱さをもって彼らを救うメシアであった。さらにまた、再び彼らが故郷に帰還することができたのは、彼らから見れば異邦人であるペルシア王キュロスによってであった。まったく予想もしなかった形で、彼らの解放は実現した。その思いが、ここに挙げた聖書の言葉として残されたのである。

聖書は、物事の運び具合には人の思惑を超えたものがあると言っているのである。そこに思い至れば、身に起こっていることをいつまでも悔やんだり、はかなんだりすることはない。常に人の思いを超えたもっと高次なものが働いていると信じるからである。そこから、自分の思いを超えて働く物事の移り具合に謙遜になる気持ちが湧いてくる。

 

【こころ】 病院付きチャプレンの訓練を米国で受けているときのことです。私はあまり英語が得意ではありませんので、患者さんと話をするのがとても苦痛でした。なにしろ相手は病人ですから、健康な人とちがって、こちらの語学力を配慮して話すということはありません。しかも、ある程度軽症で慢性疾患の患者さんは、こちらの言うことに
あまり耳を貸さず、自分の主張を通す人が多いので、相手の要求を十分聞いたり、こちらの言いたいことを上手に言って聞かせるのにはたいへん難儀をしていました。そのたびに、もう少し語学力があればと恨めしくさえ思ったものです。

ICU (集中治療室)に配属されることがありましたが、最初の日、ナースステーションに挨拶に行くと、「あまりしゃべらないでね」と担当ナースが言います。「それほどうまく話せないよ」と言うと、とたんに「それでいいのよ」との返事です。こちらの様子を見すかして、いくぶん皮肉めいた感じがないでもありませんでしたが、以来、不思議なことに、ICUのベッドに寝ている患者さんのところに行くときは気が楽になりました。相手の言葉数が多くはないので、もし私が英語に長けていれば、余計なおしゃべりをすることだってあったかもしれないと思ったほどです。語学力の貧しさゆえに、気持ちを集中して、できるだけ相手の気持ちを汲み取ろうとしたり、こちらの気持ちを伝えようとする動きを強めたりすることになったのでした。特に終末期の患者さんのところでは、ときに目をじっと見ながら手を握ったり、体をさすったりすることが多く、言葉よりも私の存在そのものが必要とされていることを強く感じたものです。言葉でない部分が必要とされることを知る体験を、このときほど強く印象づけられたことはありません。

ICUでの患者さんとの交わりのときは、ことのほか人の思いを超えたものを感じた日々だったことを思い出します。

賀来周一著『実用聖書名言録』(キリスト新聞社)より