明日に活きる無駄もある
第五章 岐路に立ち選択するとき
人生は選択の結果である。人生の結果に影響するのは、環境と出来事、そして生まれつきの素質であり、加えて自己の決断がある。環境と出来事と素質は変えることができないが、しかしそれだけで人生が決定されるわけではない。人生を最終的に決定するのは自己の決断である。その決断は、環境や出来事や生まれつきの素質にもかかわらず、それらを超えて人生を決定する。その決断を促すものはなにか。それを発見した者こそが人生に勝利する。
パンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。
(コヘレトの言葉11章1節)
【解 釈】 説教者コヘレトは「バンを水に浮かべて流すがよい」と言う。「パン」とはなくてならぬものであり、毎日食べるものである。いわば日々の暮らしのなかで、なくてならぬもの、あるいは必要欠くべからざるものを意味する。それを水に流すとは、大事なものをあたかも無駄であるかのように扱うということである。この言葉はしばしば、報いを求めないで善行を行えとの意味で解釈されてきた。人は良いことをすると、なにか良い報いがあるかもしれないとあらかじめ期待して善行に及ぼうとする。その結果が報われなければ、せっかくの善行も無意味に終わる気がするからである。
しかし、ときとして結果が報われるかどうか分からないのに、無駄と思われることを実行しなければならないことがある。結果を出すことを求める世のなかから見れば、はたしてこのようなことをしてなにになるのだろうと思う。いかにも無駄な時間が過ぎ、無意味なことをしているような気持ちになる。その結果を見るのは、いつであるのか、どこであるのか、さっぱり分からない。宗教改革者ルターは、「たとえ明日が世界の終わりであっても、私はなお林檎の木を植える」と一言ったと伝えられている。これを無駄と言わせないものはなんであろうか。
【こころ】 教会には二十年、三十年と足が途絶えて礼拝に見えない信徒の方が少なからずあるものです。こうした音沙汰のない会員に郵便物を送り続けるのは無駄ではないかと思うのは当然です。ときどき教会の信徒の方が郵便物を送るときに、「こんなに長く教会に来ていないのに、どうしてせっせと送り続けるのですか」と尋ねられることがあります。そのときは、「世のなかには、無駄と思っても、しなければならないことがあるのです」と答えることにしています。無駄でなければできないことがあるのです。無駄に意味があるからです。
その方は何十年と教会に来ていませんでしたが、毎月せっせと郵便物を送り、連絡だけは絶やしませんでした。ある日のこと、めったに行ったことのないその方の家を機会があって訪問したときのことです。
「もう長年、教会に行っていないので、すっかり敷居が高くなってしまって、とてもまたげたものじゃないですよ。でも、私が死んだら教会で葬式はしてもらえますか」とその人が言います。
「それは素晴らしいことです。あなたが葬式を教会であげるとき、立派に信仰をもって生涯を閉じたと説教をしますよ」と返事をすると、
「安心しました」とホッとした表情が浮かびました。無駄が無駄で終わらない瞬間がそこにありました。
賀来周一著『実用聖書名言録』(キリスト新聞社)より