見方を変える努力を
第五章 岐路に立ち選択するとき
人生は選択の結果である。人生の結果に影響するのは、環境と出来事、そして生まれつきの素質であり、加えて自己の決断がある。環境と出来事と素質は変えることができないが、しかしそれだけで人生が決定されるわけではない。人生を最終的に決定するのは自己の決断である。その決断は、環境や出来事や生まれつきの素質にもかかわらず、それらを超えて人生を決定する。その決断を促すものはなにか。それを発見した者こそが人生に勝利する。
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。(フィリピの信徒への手紙4章6節)
【解 釈】 使徒パウロがギリシアのフィリピにある教会の信徒に宛てて書いた手紙の一節である。この手紙は獄中で書かれたので一般には獄中書簡と言われている。監禁中にもかかわらずパウロは、いささかも気弱になることなく、逆境のなかにありながら、むしろ感謝の目をもって物事を見る態度を養っていることが分かる。
人は意にそぐわない環境に置かれるとき、つい愚痴っぽくなったり、悲観的になったりする。パウロが言うように、何事につけても心配になる。しかし、心配をしたからといって物事が好転するわけではない。
彼は今、自分の置かれた環境から、心配ではなく感謝する自分を発見した。それはなによりも、祈ることができる自分がいることであった。心配をするとは、自分の世界だけにとどまっていることである。しかし祈ることができるとは、これからどうしようかと思いまどう自分自身が、もうひとつのちがった世界から今の事態を見ることにほかならない。パウロは、ひとつところにしがみつくのでなく、別の視点をとれることにあらためて感謝しているのである。
【こころ】 物事に表と裏があるように、人が抱える問題には、どのようなことであれ二面性があるものです。深刻な問題を抱えると、それこそ心配のほうが先立って、これから先どうしたものかと考えあぐねてしまいます。しかし同じ物事の見方でも、コップに水が半分しか入っていないとするか、半分も入っているとするかでは大ちがいです。
あるとき、子どものことでたいへん心配しているお母さんがおいでになりました。
「うちの子がこのままでは、これから先どうなるのかと、私は夜もおちおち眠れません。いったいどうしたらよいでしょう。私の育て方がまちがっていたのでしょうか」問題をもつ子どもがなんとか立ち直らないものかと一生懸命になっている親心が痛いほどこちらに伝わってきます。
「子どもが一人前になってくれないものかと心配するのは親としては当然のこと。まして親は、自分の子どもが良く育ってくれと願っても、悪くなれとはだれも思いません。これまでもきっと良い成長を願って育てておいでになったのでしょうから、決してまちがった育て方はなさらなかったと思いますよ」さらに加えて、そのお母さんにこう申しました。
「今は、自分が産んだ子だから、なんとか良い方向に進んでくれないものかと心配しておいでになる。きっとお子さんに、『私はこんなにお前のことを心配しているのよ』と言っておいでになるにちがいない。しかし、お子さんにこう言うこともできるかもしれませんね。『私が産んだ子だから、お前は大丈夫だ。まちがいっこない』」そのお母さんは、ふと顔をあげて、
「そんなことは今まで子どもに言ったことはないけれども、言ってみたいと思います」と言われます。
子どもを案じる言葉であっても、見方を変えれば、ちがうところから言葉かけができます。今までは「私はこんなにお前のことを心配している」と言ってきたのに、こんどは「私が産んだ子だから、お前は大丈夫だ。まちがいっこない」と言葉を変えてみるには、勇気が必要です。その勇気を与えるもの、それは、その言葉をお母さんからぜひ言ってほしいと願っている子どもの気持ちです。
賀来周一著『実用聖書名言録』(キリスト新聞社)より