逆境の中で祈る
第四章 自戒するとき
人はだれしも自分自身のなかにあるいやなものを見つめたくはない。同時に、だれひとりとして自分のなかにいやなものをもたない人はいない。自戒するとは、自分のなかのいやなものと正面から向き合うことである。向き合うことによって、いやなものを捨てることが自戒ではない。自分にとっていやなものが果たしてきた意味を知ることであり、そこから新しく生きる自分を学び取ることが自戒である。そのとき、いやなものはただいやなものとしてあるのではなく、新しい自分をつくるためのエネルギーとしてあると受けとめることである。
だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 (マタイによる福音書5章39節 )
【解 釈】 人は他人からひどい仕打ちを受けると、それに倍加して報復したくなる。そのような人間の傾向に歯止めをかけるため、同害復讐法という規定があった。相手からやられたら、やられただけ相手に仕返しすることができると定めた規定である。そうしないと、やられた以上に相手に仕返しをするかもしれないからである。 「目には目を、歯には歯を」とは、その規定に基づいた言葉であって、やられたらやり返せと言っているのではない。公平な裁きとはなにかということを言っているのである。
イエスは、人を復讐のために裁くのではなく、愛するようにと教えられた。愛するとは、仕返しに制限を加え、手かげんをすることではない。ひどい仕打ちをした相手であっても愛するとしたら、いつたいどのような行動を取ればよいかということである。その結果が、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」となったのである。この教えを表面的に受け取るなら、「あなたはクリスチャンでしょう。私が右の頬を打ったら、左の頬を出すでしょうね」と信仰の有無をテストするリトマス試験紙になってしまう。
日常生活のなかで、ときとして、軽蔑、侮蔑、無視、差別など、右の頬を打たれるような思いをすることがある。その打った相手を裁くことはやさしい。また相手を殴り返せばよいからである。しかし、相手を愛するなら、こちらの出方はどうあればよいであろうか。その問いへの答えを、この言葉は求めているのである。
【こころ】 有名な画家アルブレヒト・デューラーの作品に「祈りの手」というのがあります。両手を合わせた手首だけの絵を思い出していただけるでしょう。その手首が節くれだち、ごつごつしていることに気づくでしょうか。デューラーは若いころ、たいへん貧乏でした。ニュールンベルクで友人とふたりで絵の修行をしていたのですが、互いに約束を結び、ひとりが絵の修行に打ち込めるように、もうひとりは働いて生活費を稼ぐことにしたのです。やがて数年が経ちデューラーの名が知られるようになり、彼の木版画が売れるようになりました。
彼は友人にこれまでの助けを感謝し、「もう働かなくともよい。こんどは私が働いて、君が絵に打ち込めるようにしよう」と申し出ました。しかしそのときには、長い間の激しい労働で友人の手はもはや絵筆をもつにはあまりにも節くれだち、繊細な筆遣いをすることはできなくなっていたのです。デューラーは、自分の名声の陰で友人がどんな大きな犠牲を払ったかをつくづく知ったのでした。ある日、デューラーは、友人が部屋で祈っている声を聞きました。友人はごつごつと節くれだった両手を合わせ、デューラーが名声を得たことを感謝する祈りを捧げていたのです。
デューラーは感動のあまり、その祈りの手を永久に残そうと筆を取り、不朽の名作「祈りの手」を完成させたのでした。デューラーが描いた手、打つ打たれる手ではなく、 愛する手だったのです。