弱さがあってこそ強さが見えてくる


第三章 自らの勇気を奮い立たせるとき

勇気がもっとも必要とされるのは、生死を分ける危機に立たされたときである。 しかも勇気は生きるために用いられねばならない。生きるための勇気とは、私の存在を肯定することである。私の存在を肯定するとき、私は困難に耐え、苦痛を忍ぶことができる。その勇気がないなら、私は私の存在を否定しなければならない。それは私の死にほかならない。もし私が死を選択するなら、それはあきらめがそうさせるのであっても、勇気ではない。生きるためには勇気を必要とする。

わたしは弱いときにこそ強いからです。(コリントの信徒への手紙二、12章10節)

【解 釈】
キリスト教会にとってパウロといえば、功労者であり、優れた伝道者であるから、その姿を想像するとき、どれほどの偉丈夫であろうかと思う。ところが、彼自身の言うところによると、そうではないらしい。彼の手紙を読むと重々しく力強く見えるが、実際に会ってみると弱々しく、話もつまらないと言う(コリントの信徒への手紙二、10・10参照)。そのうえ持病を抱えていた。そればかりではない。パウロのところにはいろいろな相談事がもちこまれて、彼を悩ませた。パウロは精神的にも肉体的にも弱り果てていたことが、彼の書いたものを読むとよく分かる。

しかしパウロは、信仰をもっているから大丈夫だと、強がりを言ってごまかす人ではなかった。自分が弱くなり、へとへとになっていると正直に告白するのである。けれども、その弱さが彼の武器でもあった。弱さを知っているので、自分の力を過信することがなかった。弱さを通して、強さでは見えない真実に触れることができた。あわせて、弱い者の気持ちにも痛いほど共感できた。また、弱さに耐える力も与えられた。弱いので神の恵みを十分に受けることができた。こうしてパウロは、弱いときに強い自分を発見したのである。

【こころ】
北欧の作家ラーゲルレフの作品に、ラニエロという人物が登場する小品があります。ラニエロは、フィレンツエの町ではだれひとりとして知らない者はない乱暴者でした。やがて十字軍に参加、エルサレムで赫赫(かっかく)たる武勲をあげ、勝利の美酒に酔い しれていました。そのとき、ひとりの兵士が言いました。
「おい、ラニエロ、お前ほどの豪の者ならどうだ。お前がもってきた聖墳墓教会のろうそくのあかりを消さないように、故郷のフィレンツェまでもって帰ることができるだ ろう」
「それくらいお安いご用さ」
とラニエロは気安く引き受けるのですが、これがなかなかの難物。ろうそくのあかりは、馬に乗って早く進めば消えそうになり、雨が降ればまた消えるといった具合で、なんとも難儀な旅がエルサレムからフィレンツエまで続くのです。途中、強盗に襲われても、あかりを守るために盗まれるにまかせ、子どものためにパンを焼く女のためにそのあかりを分けたりもしました。ついに故郷のフィレンツエに帰り着いたとき、ラニエロはすっかり人が変わって、かつての乱暴者の面影は消え失せ、ひたすら優しさをたたえたひとりの旅人となっていたのでした。ろうそくという吹けば飛ぶようなか弱いものを後生大事に抱えた旅であればこそ、これほどに人は変わるものだという話です。 強いものをもつことで人は変わるのではありません。弱いものをもったので人が変わったのです。弱さは大切な人の宝物です。