死を越えて始まる
人が悲しむのは、その人にとってもっとも重要な意味のあるものを失う出来事が起こったときである。なぜ起こったのか、どうしてそうなったのか、人は答えを探す。多くの場合、答えはない。そのとき人はきまったように「なぜ」と問う。その「なぜ」のなかには、なお三つの問いが残る。「なぜ、今なのか」「なぜ、私なのか」「なぜ、他の人でないのか」。これらの問いに人間の知恵は答えをもたない。もしあるとすれば、宗教がその答えの提供者である。しかも、歴史を生き抜いた宗教だけが答えをもつ。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。(コリントの信徒への手紙一、15章55節)
【解 釈】
パウロは、死は最後の敵であると言う。人間にとって死はかならずやって来るものなのだから恐れることはないと人は言いながらも、死はあくまで納得のいかないこととしてやって来る。死にたくはないのに死なねばならないことがあり、死ぬべきときでないのに死ぬことがあるからである。死は、自然のようでありながら、かならずしも自然ではない。パウロは、この死がもつ矛盾を捕らえて、最後の敵と言うのである。けれどもパウロは、その敵である死に打ち勝つため、キリストは死からよみがえったとの信仰に立つ。だからパウロは、「キリストが復活しなかったとすると、伝道は無駄なこと、信仰なんて意味がありませんよ」と言う。 一見、非合理的でばかばかしく思えるこの信仰には、実は深い真理が隠されている。
人は身近に起こる出来事を通して、死は答えを出すことなく問いを残して過ぎ去ることを知らされることがある。パウロは、その問いに答えようとしているのである。彼はキリストの復活を信じることによって、死のかなたにもうひとつの世界を見た。そして、たとえこの世で答えを得なくとも、死を越えた向こうで、すべてを引き受ける方がおいでになると信じるなら、この世で果たせないことがあっても、この世での人の営みは無駄とはならないと教えているのである。宗教改革者ルターは、「キリストは死の死となられた」と言う。それこそ、「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」への答えである。
【こころ】
親しい者の死に出会ったとき、いつもの生活では忘れてしまっていた人の死が急に自分のことのように身近に感じられるものです。枕辺に座り、つくづく死に顔を眺めていると、それまで一生懸命努力したり、あくせく働いたりしたことがいったいなんの意味をもつのかと思うことすらあります。ましてそれが不慮の死であったりすれば、なおさらのことです。「仕方がない」「そういう人生だったのさ」とはとても言いきれないものが残るのです。
それこそ死が問いかける「なぜ」なのです。その「なぜ」に答えるものがなければ、出口のない迷路を行きつ戻りつする思いから抜けることはできません。
本来、宗教というものは、その問いに正しく答えなければならないのです。けれどもそれが、いいかげんな死後の世界の幻想を売り物にする神秘宗教であってはなりませんし、まして死後の世界を恐ろしげに説いて、生きている者から金銭を取る偶像宗教では、死の問いに正しく答える宗教とは言いかねます。
少なくとも聖書は、その問いに真っ正面から答えようとしています。その答えをパウロの信仰を通して投げかけているのです。死は終わりではない、死は始まりなのだ、それがパウロの答えです。