今はつらくとも、やがてうなずくときが来る

第二章 人の悲しみを癒すとき

人が悲しむのは、その人にとってもっとも重要な意味のあるものを失う出来事が起こったときである。なぜ起こったのか、どうしてそうなったのか、人は答えを探す。多くの場合、答えはない。そのとき人はきまったように「なぜ」と問う。その「なぜ」のなかには、なお三つの問いが残る。「なぜ、今なのか」「なぜ、私なのか」「なぜ、他の人でないのか」。これらの問いに人間の知恵は答えをもたない。もしあるとすれば、宗教がその答えの提供者である。しかも、歴史を生き抜いた宗教だけが答えをもつ。

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、 取るに足りないとわたしは思います。(ローマの信徒への手紙8章18節)

【解 釈】
ここにあげたのは、使徒パウロがローマの教会に宛てて書いた手紙の一節であ る。苦しみは長く続くほど、これから先、いったいどうなることか、もう人生に は良いことはやって来ないのではないかと不安がいよいよ募るにちがいない。し かしパウロは、「今はなににつけても苦しいかもしれない。だが、決して今だけを 見て、ときを過ごすことはない。かならずすべてのことが明らかになり、これだ とうなずくときが来る」と言いたいのである。

彼は、単純に 「今はつらいが、後は楽になる」と言っているのではない。将来 「栄光」が現れて今の「苦しみ」が取るに足りないと思うようになると言う。栄光 とは、神の力や神の存在を意味しているが、もともとは 「価値」という意味があ る。パウロは 「栄光」という言葉を使うことによって、今の「苦しみ」に 「価値」 が与えられるときが来るのだと言っているのである。今はすべておぼろげで、なにも分からない。しかし、やがて苦しみは変わって、ちがう 「価値」あるものになる。そのときが来ると言っているのである。

【こころ】
自閉症の子どもをもったひとりのお母さんに会ったことがありました。 「私はこの子と一緒に何度死のうと思ったか分かりません」と切々と言われたことを思い出します。このお母さんは自閉症児のための小規模通園施設にその子を連れて通って おいででした。子どもたちが訓練を受けている間、施設の 一画でお母さんたちの話を聞くのが私の役目でしたが、このお母さんは一年ほど経ったころ、こう言われるのです。
「だんだん私の気持ちが変わるのがよく分かります。最初のころはほんとうにどうしようかと思っていたのですが、そのうち、この子のために私が元気でいなければと思うようになり、近ごろでは、ほかの人には見ることのできない世界を見ることができます。 それは、この子が いるおかげなんですね」
子どもが自閉症であることは少しも変わりません。しかし、その自閉症の子どもがいるので、ちがう世界を見ることができるとは、なんと素晴らしい価値の転換でしょうか。

だれにでも、このお母さんのような気持ちの転換がたやすく起こり得るとは思いませんが、視点を変えれば、苦しみも豊かな価値をそのなかにもつているという良い実例です。パウロは、だれにでもそのような転換はあり得るのだと言っているのです。