
いつも帰るところ
今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所には、イエス様が弟子の一人一人の足を洗う場面が語られており、それは何のためであるかをイエス様ご自身が語られておられます。
今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所には、イエス様が弟子の一人一人の足を洗う場面が語られており、それは何のためであるかをイエス様ご自身が語られておられます。
今、お読みし、みことばに聴いた聖書の箇所は、教会の暦の上では「受苦日」に読まれる聖書の箇所の一つで、十字架上のイエス様が息をひきとられる日としてその日を覚えます。
「あの人のことを考えると夜も眠れないわ」と聞くと、私たちは「あの子はきっとあの人にぞっこんなのね、羨ましい」なんて思う方が多いかもしれません。
「あなたから言葉は決してとられない。」この言葉は何年も前、病院の診察で私がお医者さんに言われた言葉です。
「どちらにしようかな?天の神様の言う通り。」なんて、何かに迷ったときに歌った覚えがあります。そうです。私たちは小さなことにせよ、人生の重要なことであっても迷います。
「何のために私は生まれてきたのだろう。」このような思いを、少なからず一度はお思いになられたことはないでしょうか。
全てのことを私は一人で乗り越えて来たんだ、と思われている方は少なくないかもしれません。 そうでもなく、なんで今、自分は無事でいられるのだろうかと、 不思議に思っておられる方もおられるでしょう。 今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所は、 「共におられる神様」を力強く私たちに詩っています。
「え?こんなところにも神様っているの?」と私たちが思うところにも神様はいらっしゃいます。
祈り) 天の神様、新しい目覚めを私たち一人一人に与えて下さりありがとうございます。 「目覚めること」や「眠りにつくこと」これらは当たり前のようで本当は...
『...わたしはあなたたちの神、主である』とレビ記19:10で神様は言われます。 神様の「かみ」と言う字をパソコンで変換したら始めに「髪」と変換され慌てました。 使用する漢字の頻度が「神」は「髪」より少ないのだと改めて思い、 教えられたようにも感じました。 使用頻度がなくても大切なものはたくさんあり...