オルガニスト、バッハ
17歳でリューネブルクのギムナジウムを卒業したバッハはすぐにザクセン-ワイマールの宮廷楽師となったが、やがて18歳になるとその地方のアルンシュタットのルーテル教会での試演の後、就任辞令を受けて、そのオルガニストに就任した。
ルーテル教会の音楽家バッハ、彼が遺したものは音楽だけでなく、
もっと大きなものでした。ぜひお読みください。
17歳でリューネブルクのギムナジウムを卒業したバッハはすぐにザクセン-ワイマールの宮廷楽師となったが、やがて18歳になるとその地方のアルンシュタットのルーテル教会での試演の後、就任辞令を受けて、そのオルガニストに就任した。
リューネブルクとその周辺では、今も記憶に残るオルガン作曲家の演奏に触れる機会も多かった。少年バッハは機会があれば出掛けて行ってこれに接した。ギムナジウム以上の高等教育の機会がなかった少年にとってまさに耳学問の時期だった。事実若いバッハのオルガン作品にはこうした影響をはっきりと認めることができる...
この兄の許でのできごと。われらのバッハはあるとき兄が秘蔵していた楽譜の束を発見した。見ているうちに、これはどうしても筆写してやがて自分もしっかり学び、弾きこなせるようになり、こうした曲も自分で作曲できるようになりたいとの思いが募ったのだろう。なにせ兄秘蔵の楽譜である。そこで彼
200年の隔たりを経ながら、少年バッハはこの町で育って、もう一つルターとのつながりに、それもほぼ絶え間なく接していたと言ってよい。この町のはずれ小高い山の上に立つワルトブルク城を少年バッハはわざわざ見上げるというのでなく、毎日
ルターとバッハは同窓生! ゲオルク教会のすぐ傍にはゲオルルク学校がある。教会立のギムナジウムと呼ばれる学校で、大学入学資格を得られる伝統をもつ学校である。旧東ドイツの時代には共産党の政府はなんとかしてこのキリスト教ギムナジウムを潰そうとしたが、教会が手
日本人はバッハが好き! われわれ日本人のかなり多くがバロック音楽、それもヨハン・セバスティアン・バッハ(ここでは彼をバッハと呼んでおこう)の音楽が好きなようだ。マタイ受難曲や教会カンタータ、オルガンコンサートが大きなホールを埋めるし、『バッハ全集』(小学館)の売れ行きを聞いてもそう思った。し...