バッハの結婚

結婚、そしてワイマール時代

1年余と短かったが、このミュールハウゼン時代にバッハは又従姉妹に当たるマリア・バーバラ・バッハと結婚した。結婚式を挙げたのはアルンシュタット近郊の村ドルンハイムの小さな教会、今も残っているがここまで訪ねる人はそう多くないらしい。

早くに両親を送ったバッハはこうして自分の家庭をもったのだった。この結婚から生まれた子供たちは音楽的な素質の遺伝子を豊かに引き継いで、次の時代の音楽を担う人たちとなった。

このミュールハウゼンでは市当局ともよい関係をもったようだ。1708年2月に市参事会交代の礼拝が行われたときには、バッハは求められてその礼拝のためにカンタータ71番「神こそわが王」を作曲、演奏したが、これが人々に与えた感銘に共感した市当局はこのカンタータを印刷、出版した。こうしてこれは出版されたバッハのカンタータの最初のものとなったのである。しかしバッハは辞表を出して、ワイマール宮廷のオルガニスト兼宮廷音楽家として1708年夏にはワイマールに移転した。オルガニストとしては多くのオルガン曲を、宮廷音楽家としては無伴奏ヴァイオリン作品やチェンバロ組曲などを残している。1714年に宮廷楽師長となると、この宮廷もルーテル教会の礼拝を守り続けていたから、月に1曲ずつのカンタータの作曲が課題とされ、1717年ケーテンに移るまで、れらのカンタータの中には1715年3月、受難節の主日に初演されたカンタータ80aがあったが、これはライプツィヒで1735年の宗教改革記念日礼拝のために改作されて、有名な80「われらの神は堅い砦」となることになった。