バッハとトマス教会

バッハはライプツィヒへ、1723年5月

バッハはケーテンからライプツィヒに移り、トマス教会カントール、ライプツィヒ(教会)音楽監督となった。こうしてこの地で1750年に亡くなるまで27年間にわたりその務めを果たして、今に残る数々の教会音楽の名曲を残したのである。

ザクセン公領はライプツィヒを文化と商業の中心とすれば、ドレスデンはザクセン公の居住地として政治の中心だった。ルターの生存中から宗教改革に賛同し、ルーテル教会の地域の大きな拠点ともなってきた。バッハの時代にはザクセン公がポーランドの王女と結婚し、その父王が亡くなると、ポーランド王位を継ぐためにカトリックに改宗することとなり、ドレスデンにある宮廷だけはカトリックになったものの、ザクセン領全体はルーテル教会に留まり続けた。むしろそれだけに、宗教改革時代に制定されたザクセン教会規定や礼拝規定に忠実に従おうとする傾向が強かったであろう。

神学的にもルター以来のルーテル教会の伝統が神学者や牧師の説教や聖書注解に生かされていたのだった。

バッハはこの中で教会音楽家としてこの流れをあるいは生かし、あるいはそれに先駆けた試みをしては、ライプツィヒの市参事会や聖職者会議とある種の緊張関係をもたざるを得なくなることもあった。それだけに教会音楽に現れてくる聖書理解や神学に関しては一層意識的に読書もすれば、思索も深めていたことであろう。

ライプツィヒでのバッハの活動の時期を大きく三つの時期に分けてみるのが普通だから、ここでもその仕来りに従ってルーテル教会の音楽家バッハの姿を見詰めてみたいと思う。