無縁の人と見るのでなく
第五章 岐路に立ち選択するとき
人生は選択の結果である。人生の結果に影響するのは、環境と出来事、そして生まれつきの素質であり、加えて自己の決断がある。環境と出来事と素質は変えることができないが、しかしそれだけで人生が決定されるわけではない。人生を最終的に決定するのは自己の決断である。その決断は、環境や出来事や生まれつきの素質にもかかわらず、それらを超えて人生を決定する。その決断を促すものはなにか。それを発見した者こそが人生に勝利する。
わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。(マルコによる福音書9章40節)
【解 釈】 イエスは、人を広く寛容をもって受け入れるようにと教える。この言葉が語られる直前、弟子ヨハネは、イエスの名前を勝手に使っていやしを行っている者を見つけた。そこで、無断でイエスの名前を使うのはけしからんと思い、それをとがめた。イエスはそれに対して、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と言われたのである。
人は、周囲の人間がすべて自分の味方であればよいと考える。味方であれば、意見も合うし、打てば響くように事が運ぶと思われる。そのためには、できるだけ好意的な関係を自分の周囲に築き上げたいと願う。そこで、なんとか相手がこちらのほうを向いてくれるようにとあれこれ画策することもある。よくよく考えてみれば、日ごろの人間関係づくりは、味方づくりに終始していると言ってもよいかもしれない。それがかえって、人間関係をぎくしゃくさせたり、緊張関係を生み出したりすることもある。
人間関係はかならずしも敵味方だけの関係で成り立っているわけではない。敵でもなければ味方でもない人間関係のほうがよほど多い。日ごろの生活では無縁に生きている人間のほうが多数である。それを見て毒にも薬にもならないと無視するのでなく、むしろ味方として見なさいというのがイエスの教えである。より広がった人間の世界をそこに見るのである。
【こころ】人間の心情とは面白いもので、人は自分を取り巻くすべての人から愛してもらいたいと願っているものです。取り巻く世界が好意に満ち、思うようになることが望ましいからです。しかし、すべての人が愛してくれるような好意的な世界をつくりだすのは至難のわざです。そのためには、他人さまの機嫌を損ねないようにおべんちゃらを言ったり、我慢をしたり、相手が自分に好意を寄せるよう万事にわたってそつなく振る舞ったりしなければならないでしょう。あれこれと気をつかい、ストレスが高じて病気になりかねません。
どのような人であっても、すべての人から片寄りなく愛されるような人はいません。人間の世界はたいへん不思議です。すべての人から愛されているように見える人でも、ある人たちからは憎まれることがあります。また逆に、ほとんどの人から憎まれているように見える人でも、その人を好きな人もいるのです。
しかし人を取り巻く世界は、好き嫌いの関係だけでできあがっているわけではありません。好き嫌いとは無関係の世界のほうが、よほど大きく広がっているものです。イエスは、その無関係と見える世界が実はあなたの味方なのだ、だからその世界を取り込みなさいと言っているのです。そうすることで、緊張のない安らいだ世界がぐんと広がるのです。
賀来周一著『実用聖書名言録』(キリスト新聞社)より