いつも共にいて下さるから   

image_pdfPDFに変換するimage_printプリントする
イザヤ53:1-5
​ 53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。 53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。 53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。 53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
  

 

祈り)
天の父なる神様、私たち一人一人に新しい目覚めをありがとうございます。

お一人お一人の健康をお守りください。
私たちは肉体だけの存在でも、霊的だけの存在でもありません。
いくら体が元気な時でも、心や魂に痛みを覚える時、
なんだか力が出ない時もあります。
反対に心が元気であっても、体が調子悪く動けないときもあります。
どちらか片方ではなく両方の健康が保たれることが必要なのに、
つい目に見えない心や霊的な自分を忘れてしまうこともあります。
しかし神様、
あなたは肉体も魂も一人の人間である
まるごとの私を愛し守ってくださいます。
「ありがとう」で始まり「ありがとう」で終わる一日一日でありますように。 

これから語られます神様、あなたからのみ言、
この語る者を通して神様あなたがここにおられるお一人お一人へとお語り下さいますようお願いします。
この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを主イエス・キリストのお名前によってお捧げ致します。

アーメン。

わたしたちの聞いたことを,誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。』イザヤ53:1

おはようございます。
「こんなはずじゃなかった」なんて思ったことはないでしょうか?
イエス様の人生も人間的な価値観でしか測らないとしたら、
そんな言葉で表されてしまうかもしれません。
人間だとしたら、誰も泊まることのない家畜小屋で生まれ、
何も悪いことをした覚えもないのに、
当時一番残酷な刑罰とされた十字架刑へとされた。
しかし、イエス様も神様に従う方でした。
命の希望である復活をされ、永遠に私たちと共におられます。

「こんなはずじゃなかった」「なんでこのようなことが自分に起こるのか」
私は先日の入院の間、
教会の礼拝を休まなければいけないことは、自分の頭の中の予定にあり
日曜日の礼拝を休まなければいけないということは、予定通りのことでした。
しかし、入院する前の日曜日も、日曜日の礼拝を休まなければならなくなり焦りました。
そして退院して、今日こそと教会へ行くために車へ乗り込み、
車椅子を持ち上げる機械を操作したとき機械が故障。
「うそ。。。また教会へ行かれないの」
私の予定を遥かに越えて礼拝を休まないといけなくなりました。
自分の予定通りにことが運ばないということは、
このような些細なことも、また、自分の生きている意味さえも問い正したくなり、
思わず「なんで」と叫びたくなることなど、様々なことに私たちは出合います。
しかしそんな時、心を落ち着けてみてください。
あなたといつも共にいて下さる神様はご存じです。
自分の予想もしなかったことに出合って戸惑っているあなたと共におられます。
たとえ遠回りに思える出来事があったとしても、共におられる神様に信頼し共に歩み、
あなたが神様と共に乗り越えることができるのです。
焦ることもありません。あなた自身のペースに神様が合わせて下さいます。
共に歩んで下さる神様に信頼し進むのならその道は命の希望へと向かって行くのではないでしょうか。 

私には忘れないでいつも神様を思う、ということはできないかもしれません。
でも神様は一人一人のことを決してお忘れになりません。
今日一日も神様に信頼して歩めますように。

関連記事