あなたのために歩みます
(祈り)
天の神様、私たち一人一人に新しい目覚めをありがとうございます。
目覚めを与えられること、それは当たり前ではないことを私たちは今、感じています。
ただ何年も何年も生きるうちに様々な経験は過去のこととして記憶の奥に残されていきます。
記憶として心の奥へと残しておくことも私たち人間には必要なことなのでしょう。
しかし忘れることなく、それらの経験があったからこそ今を大切に、
そして与えられている命を感謝することもできます。
全ての経験が教訓として残されるのではなく、
今を大切に生きる一人一人の出会いとして感謝できますように。
これから語られます神様、あなたからのみ言、
この語る者を通して神様、あなたがここにおられるお一人お一人へとお語り下さいますようお願いします。
この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお捧げ致します。
アーメン。
「『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか」ルカ23:31
おはようございます。
私たちはいつも人々の中をただ黙って従って行く主イエスの姿を聖書のみ言から聴きます。
今ご一緒にお読みした聖書の箇所においても、イエス様は人々に逆らうことなく
ただ、黙って従って行く姿を描き出しています。
主イエスの向かうのは十字架への道でした。
人々が目標としたのはイエス様を十字架刑で殺すことです。
しかし、主イエスはその先にある命への道を歩かれていたのです。
苦しくてとても辛い歩みが続けられます。誰も助けてくれません。
一人の知らない人、キレネ人のシモンという人が、イエス様の十字架運びを手伝わされ、イエス様に従わされます。
縁もゆかりもない人の重荷を一緒に運ぶなんてとんでもない、って私たちは思います。
この時十字架を背負わされたキレネ人のシモンもそう思っていたかもしれません。
イエス様は自分の後ろで十字架を背負って自分に従ってくれている人のことは、見えなくてもご存じです。
同じ様に私たちが苦しいけど歩まなければいけないことは人生の中でもたくさんあります。
私たちが見えなくても、イエス様は私たちの後ろで一緒に重荷を背負って下さっています。
「おまえは私とは何の関わりもないから」とイエス様を信じていないからとか、聖書を読んだことがないから、というのではなく、
全ての一人一人の人生の重荷も喜びも共に背負って共に歩んで下さるのです。
私たちがどんな人間でどんな経験をしてどう生きて来たか、
それらは神様の愛の前では関係はないのです。
だから何をやっても神様に許して頂けるのなら、と
何でもやっていいわけではありません。
一人一人が生きている社会にはルールもあり責任があるでしょう。
でも「命」というものの重さは誰一人違わず同じ重さです。
それは私が測るものでも誰かに測ってもらうものでもありません。
神様に与えられている「命」その一つ一つがかけがえのないのです。
だから主イエスは世界中の一人一人をご存じです。
世界中の一人一人の中の誰かが「イエス様なんて知らない」と言ったとしても、
主イエスはご存じで共に歩かれています。
たとえ私たちがイエス様を見失っても焦る必要はありません。
イエス様は私たち一人一人を決して見失いません。
それはいつも共に歩まれているからです。